集団自決の強制の意味は何か?改めて答える

沖縄戦で「集団自決」が強制だったのか否か?という問題は、沖縄戦日本軍が何をしたかに深く関係している。沖縄戦については多くの歴史書が出ているが、大田昌秀安仁屋政昭石原昌家*1林博史大城将保*2などの研究者の結果は一致している。


それは沖縄戦とは、住民全員に対し戦闘を強いた(強制した)戦いであり、その結果、戦闘に参加できない女子・老人・子供は死を強いられ「集団自決」させられた。また戦闘参加を嫌がる者には、戦闘を強いるため見せしめに殺した(その数は多く住民虐殺と呼ばれる)ということです。


これが沖縄戦と集団自決と住民虐殺の関係です。林博史氏などは特に住民に英語を話せる者がおり日本軍がいなければ、集団自決はおきていないことを強調し、心理的に洗脳されたのではなく、まさに「強いられた」事が大きいとしています。


以下は、日本軍のした住民虐殺の証言です。60年前日本がした戦争はこれほどまで残虐だった。しかしその残虐さは日本軍とその背景にある天皇崇拝のせいであり、戦争自体の残虐性とは言えないことに注意すべきです。沖縄戦でも弾薬がなくなり勝機のなくなった時点で牛島指揮官が降伏していれば多くの兵士が助かったし、民間人に戦闘を強制しなければ3人に1人が死ぬような被害は出なかったことは、誰でもわかるはずです。

日本軍による住民虐殺について

石原昌家氏は沖縄戦で日本軍は住民を守るという考え方はなかった、戦闘開始以前から「軍官民共生共死の一体化」が指揮官から唱えられ、住民も軍隊と一体となって死ぬまで戦わせることが、日本軍の方針として明示されています。このため日本軍の劣勢が明確になった時点でも住民も共に死ぬまで最後まで抵抗するという方針が与えられた(1945年3月日本軍資料「秘密戦に関する書類」および5月5日の牛島司令官の命令、石原昌家の記述による)。


加えて住民が米軍に投降するのはスパイ行為だとして、投降者、投降を進める者、なんらかの形で接触した者を殺害することがあった。また壕追い出しや食料を奪うこと、悪性マラリア地帯に強制疎開させることで死に追いやる多くの例がある。それぞれの被害者数は住民が死亡しているためあくまで推定だが、大田昌秀は多くの証言を調べ、壕追い出しで100人以上、食料強奪で60人以上、住民虐殺が290人という数字をだしている(「総史・沖縄戦」および家永教科書裁判での証言大田氏の意見書より)。

日本軍による住民虐殺の証言

糸満市真栄平で豪を奪う:被害女性当時20才。

「私たち一家は日本軍に何度も壕を追い出され、ついに自分たちの屋敷の下に穴をほって避難していました。5月下旬のある夜、日本刀を持った日本兵がやってきて「出ろ!お前達はすぐに出て行け」と怒鳴った。母はよく聞き取れなかったらしく「なんでしょうか…」と身を乗り出したら、いきなり首をはねられてしまった。首は穴の奥に寝ていた金城さんの胸に落ちてきたそうです。  私はちょうど水くみに出かけていた、帰ると穴の近くに眼を光らせた日本兵が一杯いた。「ヒッー」と声にならない声が聞こえ、見ると妹と弟2人がいた、3人とも血まみれで下の弟は腸が見えていてこと切れていた。まだ息のある弟と妹を抱え隣の兵隊のいない壕へ逃げたが、3時間後には息を引き取った。苦悶の中で2人が話してくれたのは、母が首をはねられてから妹達はすぐに逃げた、でも刀を振りかざした3人の兵隊が追ってきて何回もついてこじり上げて、背負われていた弟は腹をえぐられたんです。」(「総史・沖縄戦」より)

壕内で子どもを薬殺:仲間忠一(当時31才)

「私たち40〜50人は阿檀林の中の石の下に隠れていました。2キロも離れた上里の井戸から命がけで水をくんでいましたが、兵隊たちは「水を渡さなければ殺すぞ!」と何度も水を奪いました。ある時米軍がマイクでこの山をガソリンで焼くと言ったので、私は1人で壕を捜しに出かけました。そうすると日本兵が「お前はスパイだ」と言って1人は手榴弾で1人は小銃で殺そうとするです。その壕にいた親戚や部落の人がかばってくれたのやっと助かりました。その晩子どもが泣くと今度は「子どもを泣かせると殺すぞ」と脅しました、そして注射器を持った兵隊が「こどもを静かに眠らせてあげるから」と言って、無理矢理注射をしたのです。4人の子どもは苦しみながら間もなく死にました。」(「総史・沖縄戦」、p207)

天久台高射砲陣地でのスパイ視での処刑:1945年4月28日、大城政英

「大城さんは宮城護衛の近衛兵だったが1944年に満期除隊していた、しかし沖縄防衛のため自ら沖縄に行き故郷の小湾(旧浦添村)の現地軍の下で陣地作りなどをしていた。4月28日小湾に危険が迫ったので天久台の親戚のいる壕に移動しようと壕に入った。すると兵隊が突然「誰だ」と呼び止めすぐに「お前はスパイだ」として刀を抜き殺そうとした。大城さんは軍隊手帳を出し、小湾の部隊に電話して聞いてくれといい、出てきた叔母が自分の甥だと言っても、また天久の区長が言っても兵隊は聞かない。最後に叔母が天久台高射砲陣地の面識のある兵長を連れてきてその兵長が「この人なら私が保証する」と言ってくれてそれでやっと助かった。私が「なぜ沖縄人をスパイだと言って殺すのか」と言うと兵隊は「沖縄人はみんなスパイだから殺せという命令が上から出ているんだ」と言った。しかし、ちょうどその時大城さんと同年輩の男性が、同じようにスパイと言われていて、日本兵はその人を壕の外に連れて行き拳銃で撃ち殺しました。」(家永教科書裁判、石原昌家意見書、p45)

慶良間諸島での軍命の証言:

慶良間諸島の場合は直接的に「集団自決」の命令が日本軍からきたという事が、軍からの命令を受ける立場であった兵事主任の言った内容として残されている。渡嘉敷島では兵事主任富山真順(戦後死去)が、戦後「軍から命令された」と証言しているし、現在でも金城重明氏が兵事主任からその話を聞いたことを証言している*3。また慶良間島では、兵事主任宮里盛秀(玉砕)の父親(宮里盛永)および妹(宮平春子、宮村トキ)が、その晩彼が「軍から命令が出ている」と喋ったことを手記に書いたり、証言(沖縄タイムズ、2007年7月6日*4および「集団自決」訴訟の陳述書)したりしている。

*1:石原氏は、おそらく住民虐殺と集団自決について最も詳しく言及した研究者だが、残念だがまとまった本を書いていない。その見解は裁判での意見書で示されている。この見解に大城将保など他の研究者も同意している。「家永教科書裁判 第3次訴訟 高裁編 第3巻:沖縄戦・草莽隊・教育現場」教科書検定訴訟を支援する全国連絡会 民衆社, 1996

*2:大城将保の見解は2007年放映されたNHK番組「“集団自決”62年目の証言〜沖縄からの報告〜 クローズアップ現代 2007年6月21日放送」でよくしめされている。以下のサイトで番組内容を知る事ができる。http://blog.goo.ne.jp/stanley10n/e/312f9ae10b5a50e5f3407e06d0eb56a8

*3:http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-27030-storytopic-1.html

*4:http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2007-07-09/2007070904_01_0.html

昭和天皇はどれだけ戦争に関わったのか?天皇の戦争責任

天皇の直接的な戦争指揮に関する疑問と回答>
以下は、山田朗教授の「大元帥 昭和天皇」(新日本出版社,1994年)の、あとがきより抜粋したものです。


昭和戦争史に果たした天皇の役割とその戦争責任」
昭和天皇はどれだけ戦争に関わったのか?天皇の戦争責任を否定する直接的な戦争指揮に関する次のような質問について、山田朗教授(関東学院大)は専門の近代軍事史の研究成果から答えています。


(疑問)

  1. 天皇は軍事には素人で、戦争には主体的には関わらなかったのではないか?
  2. 戦争は軍部の独走であり、天皇はそれを抑えようとした平和主義者だったのではないか?
  3. 天皇は戦争について実態を知らなかったのではないか?(軍部は天皇に情報を与えなかったのではないか)
  4. 天皇が決断したからこそ、戦争が終わり平和になったのではないか?


(回答)山田朗氏が自著のあとがきでまとめたもの

戦争への天皇の主体的関与について

天皇は「御下問」「御言葉」を通じて戦争指導・作戦指導に深く関わった。天皇は作戦について統帥部の方針や作戦の進め方を無条件で認めていたわけではない。とりわけ、次の事柄については大元帥昭和天皇の発言は、作戦計画あるいは具体的な作戦内容を左右する大きな影響を与えた。
  1熱河作戦の一時差し止め(1933年)
  2二・二六事件における反乱軍の武力鎮圧方針の決定(1936年)
  3日中戦争初期の兵力増強、戦略爆撃実施方針の決定(1937年)
  4張鼓峰事件における武力行使方針の一時差し止め(1938年)
  5「昭和14年度帝国海軍作戦計画」の修正(1939年)
  6宣昌再確保への作戦転換(1940年)
  7フィリピンバターン要塞への早期攻撃の実現(1942年)
  8重慶攻略の方針の決定と取りやめ(1942年)
  9ガダルカナルをめぐる攻防戦における陸軍航空隊の進出(1942年)
  10ガダルカナル撤退後のニューギニアにおける新たな攻勢の実施(1943年)
  11統帥部内の中部ソロモン放棄論の棚上げ(1943年)
  12アッツ島玉砕後における海上決戦の度重なる要求と海軍の消極的姿勢への厳しい叱責による統帥部ひきしめ(1943年)
  13陸軍のニューギニア航空戦への没入(1943年)
 14「絶対国防圏」設定後の攻勢防御の実施(ブラウン奇襲後の軍令部の指示など、1943年〜1944年)
  15サイパン奪還計画の立案(1944年)
  16沖縄戦における攻勢作戦の実施(1945年)
  17朝鮮軍関東軍への編入とりやめ(1945年)


昭和天皇は軍事に素人などではけしてなかった天皇大元帥としての責任感、軍人としての資質・素養はアジア太平洋戦争において大いに示された。開戦後、緒戦においてあるいはミッドウェー海戦敗北に際しても、天皇は泰然としているかに見えたが、それは総司令官はいかなるときも泰然自若として、部下将兵の士気高揚を図らねばならないという、昭和天皇東郷平八郎から直接・間接に学んだ帝王学・軍人哲学を実践したものであった。しかしガダルカナル攻防戦における統帥部の不手際を目の辺りにして天皇は、次第に作戦内容への介入の度合いを深める、天皇は並々ならぬ意欲で作戦指導に当たったが、日露戦争の作戦指導を引き合いに出して作戦当局に注意を与えたり、目先の一作戦に拘泥せずニューギニアでの新たな攻勢を要求したりするなど、軍人としての素養を大いに示した。


昭和天皇はあくまで政治と軍事の戦略の統合者として世界情勢と戦況を検討し、統帥大権を有する大元帥として、統帥部をあるときは激励あるときは叱責して、指導しようとした。また前線将兵の指揮沈滞を常に憂慮し、自ら勅語を出すタイミングに気を配っていた。


1943年5月にアッツ島が玉砕すると、戦争の将来に漠然とした不安を抱いていた天皇は、統帥部に執拗に「決戦」を迫り、その期待に応えられない永野軍令部総長は信頼を失っていく。天皇はイタリアの脱落というヨーロッパ情勢をあわせて考慮しながら、見通しを持った戦争指導の確立を求めた。そのポイントが米軍との海上決戦であった。


しかしそれが不可能なことを知ると基本的には陸軍統帥部の持久戦戦略=「絶対国防圏」構想を支持した。だがそれでも陸軍統帥部の受動的姿勢と海軍統帥部のマーシャル決戦論とは、自らは一線を画し攻勢防御をとることを主張した。


天皇の判断行動はどれをとっても大元帥としての自覚と軍人としての豊富な知識に支えられたものであったと言えよう。ただ昭和天皇が並外れた戦略家でったとか、奇抜な戦術家であったという訳ではない。天皇の戦略眼や作戦における着目点には、非凡なものがあったのは確かであり、統帥部の戦略・作戦の欠陥を見抜く力を持っていたが、有力な代案が提起できるほどの独創性があったわけではない。天皇の提案が現実の作戦に少なからず影響を与えたのは、天皇大元帥としての権威という面もあるが、天皇と同じ意見の軍人が必ずといってよいほど統帥部にいて、天皇の発言を最大限に利用して自説の貫徹を図ったからである。


平和主義者天皇の膨張論

昭和天皇は軍部による手段を選ばない強引な勢力拡張、戦争路線に常に賛成していたわけではない。1933年の関東軍による熱河作戦、1940年から1941年の南進路線と統帥部の対英米ソ開戦論への傾斜に対して、天皇は基本的には慎重論を持って対処しようとした。しかし天皇には統帥部の膨張論・開戦論を押し返すだけの積極的な論理がなかった。これは性格や人間性の問題ではなく、天皇が統帥部のマキャベリズムに対抗できるだけの哲学を持ち合わせていなかった、ということである。


天皇が有していたのは「八紘一宇」の政治哲学で、領土勢力圏の拡張を君主の事業と見る点において、統帥部の露骨な膨張主義・機会便乗主義の潮流に埋没せざるを得なかった。また昭和天皇はどのような軍事行動であれ、戦闘に勝利し結果として「国威発揚」に寄与した場合には、賞賛を惜しまなかった。


満州事変における関東軍朝鮮軍の独断専行の軍事行動、熱河作戦、張鼓峰事件など当初は天皇の怒りをかったが、戦果が上がると天皇は一変してこれらの行動を事後承認しただけではなく、勅語を出すなどして賞賛・激励したのである。
 これは勝てばよい良いという考え方というより、満州事変・日中戦争の際に明確に現れたように、あくまで欧米大国との直接的な干渉、それらとの衝突をひきこおこすか否かという計算の面が強い。大元帥としての天皇が何より恐れたのは、軍部の独断専行ではなく、将兵が士気を失ってしまうことであった。従って戦闘に勝利した場合には、必ずといってよいほど「嘉賞」(お褒め)の言葉を与えた。このような天皇の結果優先、事後承認の姿勢は、結果として軍部の独断専行の武力戦や謀略を奨励・激励することとなった。


天皇が軍部にありがちな精神主義、冒険主義に嫌悪感を持っていたことは確かである。天皇が対英米開戦になかなか踏み切れなかったのも、軍部が早期開戦論を唱えつつも、長期戦に移行した場合の見通しを一向に示さないことに原因があった。天皇は1941年9月6日の御前会議の時点では開戦論には踏み切れなかった。それは前日の両統帥部幕僚長とのやりとりでも明らかである。しかし統帥部はこのとき天皇を説得する重要性にあらためて気づき、10月半ばから、初期進攻作戦においても長期持久戦においても、十分な勝算があると具体的に論じるようになる。勝利の勝算という事が最大の不安であった天皇は、近衛内閣の末期から東條内閣の成立期において、統帥部の論理に基本的に説得されたといえる。


天皇の「平和主義」とは、帝国主義国家の君主として、なるべくなら露骨な手段を使わずに、「平和」的に領土と勢力圏を拡張していこうという、一種の穏健主義ということであり、当然のことながら絶対的平和主義などではないのである。


天皇に集中されていた軍事情報

日中戦争、アジア太平洋戦争を通じて、天皇には常に最重要、最新の軍事情報が提供されていたのは確かである。陸海軍双方の軍事機密情報を同時に検討できる立場にあったのは天皇ただ一人であった*1。戦況上奏あるいは速報(電報)を通じて天皇に報告される情報は膨大なものであったが、天皇はけしてそれらを聞き流していなかった。しばしば戦況に関して自らあるいは侍従武官を通じて下問し、敵の作戦企図を推理していた。
 天皇が受ける報告は、統帥部自体の情報収集・審査判定能力の欠如から、戦火に関してはしばしば不正確・過大であったが、少なくとも自軍の損害については、天皇は最も正確に知りうる立場にあったと言える。


天皇の決戦へのこだわりと聖断シナリオ

1994年2月トラック諸島が連合艦隊の根拠地としての機能を喪失し、ラバウルが孤立化して絶対国防圏の崩壊が始まると、天皇は次第に戦争指導、作戦指導に関する積極的な発言をしなくなる。しかしこの時期に到っても天皇東條英機への信任は揺るがなかった。さすがにサイパンに米軍が来攻すると天皇はその確保・奪還をかなり執拗に要求するが、あきらかに指導意欲は減退していた。


1945年2月近衛ら重臣の上奏を受けても、基本的には統帥部の決戦後講和構想の枠から意識的に離脱することは出来なかった。しかし、沖縄戦が始まると天皇は危機感を深め、焦慮からか久々に作戦内容に立ち至った発言を繰り返し、かえって作戦を混乱させてしまう。


聖断方式による終戦シナリオは沖縄戦以前から天皇周辺で練られていたが、転換時期の判断が難しく、また天皇が基本的に統帥部の決戦後講和論を支持していたため、なかなか発動するきっかけがつかめなかった。ドイツが敗北し沖縄戦の希望がなくなった時点で、天皇はようやく終戦に傾斜するが、それでもなおソ連への講和斡旋要望など、指導層の混乱から聖断シナリオは依然として発動されなかった。原爆投下ソ連参戦という軍事的破綻をきっかけに、天皇は宮中グループの聖断シナリオにのり、本土決戦に執着する軍部に継戦を断念させた。


第2次世界大戦はすでにマリアナが陥落した1944年6から7月に最終段階に入っており、以後の天皇と統帥部の決戦への執着が、いたずらに犠牲を拡大させたのである。歴史的に見れば、天皇が聖断シナリオにのって最後の最後に決断したから戦争が終ったことよりも、マリアナ失落という、決定的な転換期に決断しなかった為に戦争が続いた、ことの方が重要だろう。


昭和天皇の軍事思想

次に主にアジア太平洋戦争中の天皇の作戦に関する発言を分析してみて、昭和天皇の軍事思想はどのようなものであったか考えてみよう。天皇の軍事思想とはあくまで最高統帥者=大元帥としての軍事思想である。どのように作戦を立てるかという幕僚の軍事思想ではなく、軍の最高統帥者はいかにあらねばならないかという思想である。
 その点で常に昭和天皇の念頭にあったのは、大元帥は部下将兵の士気を崩壊させてはならない、ということである。天皇はしばしば統帥部の幕僚や前線の将兵が士気を低下させていないかどうかを注意している。


苦戦であればあるほど、軍を統率するものは、動揺を部下に見せてはいけない。すくなくともガダルカナル戦までは天皇はこの原則に忠実であった。それ以降はなかなか泰然としてはいられなくなったが、それでも少しでも戦果が上がれば、統帥部と前線将兵に満足の意を示し、かつ更に奮闘するようにと激励を重ねた。


とりわけ前線の指揮官にとっては天皇が作戦を称揚したり、事態を憂慮したりすることは自らを奮起させたり、反省させたりするような重要な契機となっていた。天皇も自らの激励の効果をよく知っていた。その意味で天皇は自らの軍事的役割をよく自覚していたいえる。統帥部も前線の作戦部隊に具体的な勝利のてだてを与えることが出来ない場合(命令を出すに出せない場合)、「勅語」や「お言葉」を伝達することで、部隊が実力以上のもを発揮することを期待した。だが、それは沖縄戦の例からわかるように、しばしば無謀な作戦を現地部隊に強いることになった。




また天皇は精神的支柱であることを超えて、具体的に作戦に介入したが、そこに表れている軍事思想は先制と集中の原則に忠実なかなりオーソドックスなものであった。天皇は古今の戦史からよく学んでおり、作戦指導の本筋はどうあるべきか、ということには自信を持っていたように思われる。天皇は、どちらかといえば「寡をもって衆を撃つ」奇策をもって「作戦の妙」と考えがちだったが統帥部の戦術家、とは肌合いを異にしていたといえる。


しかし原則に忠実なオーソドックスな考えといっても、それと同時に天皇は徹底した攻勢主義者であった。攻撃偏重主義といってもよい。その点天皇は日本軍の軍事思想を忠実に学んでいた、その現われとして、天皇ガダルカナルでの膠着・消耗をニューギニアでの攻勢で挽回しようとしたり、ソロモン方面でも海軍に積極的に攻勢に出るように、しばしば要求している。天皇の攻勢主義は戦争末期に到っても変わらなかった。沖縄地上戦での攻勢の催促はそのことをよく示している。


天皇の戦争責任について

天皇の戦争責任を否定しようとする議論には、大別して(1)天皇憲法上の権能からの否定論(大日本帝国憲法の条文を根拠とする否定論)(2)天皇の実態からの否定論とがある。


本書では(2)の実態からの否定論に対する全面的かつ実証的な批判となっている。天皇は戦争に主体的に関与しなかったとか、天皇が決断したからこそ戦争が終ったのだ、といった議論は全て成り立たない。

もし「成り立つ」という論者がいるなら、具体的に史実に即して反論すべきである。明確な根拠を挙げないで「天皇は平和主義者だったに違いない」「軍部は天皇に情報を伝えていなかったに違いない」といった憶測に基づく議論は、何ものも生み出さない。


回答まとめ(abesinzouによるまとめ)

  1. 天皇は軍事には素人で、戦争には主体的には関わらなかったのではないか?  →  天皇は十分な量の軍からの情報と、豊富な軍事的知識とを持った軍事専門家であり、戦争指導に積極的に関わった。統帥部からの上奏に対し具体的な質問を行い、実際に作戦内容を何回も変更をさせている。指揮は、戦争開始などの大局場面から個々の作戦まで全面的に行っている。また将兵の士気を保つことに注意し、そのために意識的に勅語(お言葉)を出している。
  2. 戦争は軍部の独走であり、天皇はそれを抑えようとした平和主義者だったのではないか?  →  天皇の方針とは帝国主義国家の君主として、露骨な手段を使わずに領土と勢力圏を拡張したいというものであり、基本的には軍部の膨張主義とは差はなく、平和を望んでいたとは言えない。
  3. 天皇は戦争について実態を知らなかったのではないか?  →  天皇には重要な情報が、すばやくもたらされている。また天皇は報告を聞き逃すことなくきちんと聞き、必要なら質問をしている。
  4. 天皇が決断したからこそ、戦争が終わり平和になったのではないか?  →  天皇の戦争責任を考える上で最も重要な判断は、戦局の決定的な転換期であるマリアナが陥落した1944年6〜7月に、戦争終結の判断を下さなかったことだろう。天皇の決断により戦争が終ったのは事実だが、戦争指導の責任の大きさの点では、多くの無駄な犠牲を出したことの方がはるかに重い。

*1:当時の日本には陸軍と海軍という2つの”独立”した軍があったと山田朗先生は説明している。2つの軍を連携させ統率する指導組織はなかった、互いに情報を共有しておらず、終盤において戦局を左右するような決定的大敗さえ他の軍には教えないという酷さであった。この結果、両軍の全ての情報を知るこの出来るのは天皇だけになり、日本の軍事力の壊滅状況を総合的に判断できるのは天皇だけであったという点でより天皇の戦争責任は重いと言えよう。驚くべきことだが真実でありよく聞かれる大本営も陸海2つ別々に存在する。

右翼の天皇観、国家神道観(中西輝政にみる)

<現在の右翼の天皇制への考え方>
靖国神社の国家観、日本会議など右翼の考え方の一端を中西輝政の本「皇室の本義」から示します。ここで中西が言っていることは、まるで日本人が古来から天皇を崇拝してきたし、それが日本的なことなのだと、もともと天皇崇拝が自然なことであるかのように言っています。しかし島薗進は、実はそれらは明治維新以降の、特に昭和始め以降に国民に教化されてきたものであることを研究で示しています。中西の言ってることは一見論理的だがほぼ戦前の天皇制(=国家神道)の復活でしかありません。


以下、「皇室の本義」中西輝政福田和也PHP出版、2005年(以下引用部分は全て中西の発言)から

中西輝政(=右翼)の天皇観の要点

  1. 天皇は本来は元首である(天皇が古来から主権者であり、現在の憲法はおかしい)
  2. 天皇は国家的な祭祀大嘗祭など祖先への礼拝)を行うから尊い
  3. 日本人は本来的に日本の心(やまとごころ)をもっており、それを体現しているのが天皇
  4. 古代から天皇が日本の中心であり、皇室はそういう伝統をもっており、日本人はそれを支持してきた(注記:しかし天皇や皇室の伝統、日本人が明治以前から天皇を崇拝してきたなどについては、嘘であることが、島薗進の研究ではっきりしています
  5. 天皇制はGHQによりゆがめられたが、それは表面的なことで、今も日本人は政治と宗教の中心として天皇を支持している

中西=日本人とは国と心を一つにするもの、国を体現するものが天皇

日本古来の考え方で言えば、「国」と「心」は一つで「国体」とは、日本的な心のあり方を示すもの。それをひらがなで「やまとごころ」と書く学者もいる。日本的な心根こそ国体である。こうした「日本の心」を目に見える形でもっともはっきり示すものが「天皇」である。これは日本国憲法で書かれている日本の象徴ということと矛盾しない。(p17)

中西=宗教的存在としての天皇こそが大事

日本人が今深く自覚すべきなのは宗教的存在としての天皇である。天皇の系譜をたどれば神話まで行き着く、その天皇が日本国の繁栄と国民の幸せを祈って日夜祭祀をなさっている、それゆえ天皇が日本という国家を体現し国民を統合する役割を果たせるのだ。


そのことを我々の天皇観の根底にしっかり持っておくことが何より大切なのである。それは単なる文化の営みではなく、大きな意味での政治そのものであり、まさに国家を指導する営み(まつりごと)である。そしてこれこそ、古代につながる天皇の存在理由である。だからこそ皇室は尊いのであり、天皇のこの側面こそ今日本人が一番忘れていることだ。


しかし今でもそれに正しく気づけばおそらく日本人なら誰でも、素直に感動し感謝の心が生じるはずである、それが変わることのない「日本のこころ」だからだ。昔はそれを「皇恩」と呼んだ。これがこの国の形、すなわち日本のこころであり、いかに他の国と違っていようとも、ここに日本文明の核心があるのである。(p30)

中西=天皇が偉いのは祭祀(宮中祭祀大嘗祭など)を司るから

王室を中心に国民道徳の涵養に腐心することは、この百年ないし二百年、つまり近代に入るにあたって、どの国の王室も経験したことだと思います。ただ日本の場合他国と横並びに出来ないキリスト教圏の君主制ではないということです。一番重要なのは日本の場合、天皇の本質がすぐれて「宗教的存在」であるということです。「祭祀を司る」というところに日本の天皇の一番の本源がある。(p72)


祭祀は大切で皇室の存在の核心である。だからといって科学的思考や合理主義という価値がないがしろにされるような方向は絶対にならない。私はこれを信仰に裏付けられた深い合理主義だと思います。これこそ日本の皇室がもつ、ものすごく強靭な文明装置なのです。(p145)

中西=天皇の最大の仕事は宮中祭祀であり、日本人にてって重要なのだ

ここでもう一度宮中祭祀の話に戻りたいのですが、いま宮中祭祀の問題について日本の政治家もオピニオンリーダーもほとんど関心を持っていません。しかし宮中祭祀に関する議論を抜きに皇位継承問題やそれに関わる皇室典範改正問題について語ってもほとんど議論したことになりません。


天皇陛下の御公務の中心は祭祀といって過言ではありません。これに圧倒的な時間をお取りになっていらっしゃいます。(中略)「開かれた皇室」ということが言われるときに、宮中祭祀を含めた広い意味での「宗教活動」を国民に伝えようとしないことが不満でならないのです。とくに今上陛下は歴代の天皇以上に、全身全霊をこめて祭祀活動をなさっておられる。この意味の重要性について国民が考える上で、皇室報道にとって非常に重要な側面だと思うのです。それはけっして皇室の「私事」などではないからです。(p135)

中西=明治の日本人は祭祀と合理性、両方を大事にしてきた

そして国民の側にも「五箇条のご誓文」以来あるいは「終戦詔勅」にあったような、「日々世界の進運に遅れず」合理的開明的な姿勢をはっきりもつ、という現実への姿勢があり、一方で祭祀を重視しこの国の根幹をたゆまず保持していく心の姿勢があった。(中略)


ところが国民の方が、それらを2つながら保持するという、大きな大和心をどこかの時点で失ってしまった。おそらくは大正ないし昭和の戦前期でありそれが戦後もずっと続いている。(p146)

中西=天皇崇拝・国家神道は有史以来の日本の伝統である

明治以前に皇室は122代という連綿とした歴史を経てきたわけですから、皇室伝統に関して、大半は明治以前に出来上がったというのが前提です。(中略)


天皇陛下に対する明治以来の全国民的な崇敬の念は、日本人の心の根幹にはっきり残ったのです。これを明確に示しているのが、昭和天皇が戦後、全国を行幸なさったときの映像です。おそらく占領軍当局が撮ったのでしょう、今もビデオで見られますが、広島の平和公園に大群衆が集まり、遠景には被爆した原爆ドームが映っているというものです。そこに集まった見渡す限りの大群衆がお立ち台に立たれた昭和天皇に対して「天皇陛下万歳」と聖寿万歳をしているのです*1


これこそ私は明治以来の天皇制が戦後も連綿と続いていることを示す何より雄弁な姿であり、近代天皇制のおおいなる高まりでさえあったと思います。(p107)

中西=政教分離は間違い、天皇が政治と宗教を同時に司る事こそ、日本の伝統でで正しい姿

ここで大きな問題としてたちふさがるのが憲法二十条(信教の自由)との関係です。たしかに二十条は信教の自由の名の下に、国及びその機関が宗教活動をすることを禁じている。(中略)


しかしこのような政教分離論は根本的に間違っています。歴代天皇はどこへ御旅行されようと必ず「三種の神器」を一緒に持っていかれます。どこにお泊りになっても毎朝伊勢の皇大神宮に向かっての遥拝は欠かさずなさっている。


これらは非常に重要な国事でもある。国事としてなさっているからこれは公務でもある。それをまったく理解せず、誤った政教分離論に基づいて本来あるべき皇室報道が阻まれているとしたら、現憲法の最大の問題点と言わねばなりません。(p137)

*1:この光景は日本人の愚かさをしめしていて恐ろしいです、これに対する見方を幣ブログに書いた中沢啓治氏の感想とくらべてください

なぜ国家神道が危険なのか?

国家神道がなぜ危険なのか?なぜなら現在では、それを右翼が復活させようとしているからです、
彼らは国家神道とは言わないが、その言っている内容は戦前の国家神道(=日本は絶対的に崇高な天皇が支配する特別な神の国だ)をいまや、正々堂々と主張しています。


例えば下記の佐藤優の講演です。
http://jp.youtube.com/watch?v=9ZJvHRz1Epk(1/3)平成19年
http://jp.youtube.com/watch?v=qT4PxNXhJRI(2/3)
http://jp.youtube.com/watch?v=9mlqU6xkqqw(3/3)
−−−−−
http://jp.youtube.com/watch?v=jx_qAtWwvPY(1/2)平成20年
http://jp.youtube.com/watch?v=DXv38xM-yZI(2/2)


佐藤優は平成19年の右翼集会「主権回復記念日の集会」での講演で以下のように喋っています。

  1. 日本国家の基礎は「国体」だ*1
  2. 憲法改正で本当の争点は、共和制か天皇制かだ。今護憲派憲法9条を守れと言っている奴は、心の中では共和制にしたがっている。これは絶対阻止せねばならない。
  3. ゆがめられているが、現在でも本来的には天皇主権である
  4. 葦津珍彦の言っていることは正しい(戦前の国家神道が悪というのはGHQの洗脳だ)*2
  5. 戦前でもキリスト教徒も靖国神社に参拝した、それでいいじゃないか、信教の自由はあったのだ*3
  6. 今大事なのは、GHQによってゆがめられた「国体」を取り戻すこと
  7. 「国体」とは伝統であり、それは昔から言われている事、即ち神話(古事記、日本初期)を受け入れる事*4だ、それらに矛盾があると疑ってはいけないそのまま鵜呑みするのが大事だ。
  8. 戦前の文部省がまとめた国体の本義が正しく、そこに日本人とは何かもかいてある
  9. 国民主権とは誤った人権思想である
  10. 憲法論議の上で、皇室典範憲法と同じだけ国家にとって重要だ。皇室典範憲法に優先すべきだ
  11. 今の日本人は「国体」を理解していない、戦前の国体を取り戻すことが必要だ

佐藤優氏は、「平成のラスプーチン」と呼ばれているそうだが、私から見ると
日本は神の国で、ありがたい天皇様の皇恩を得ているからなりたつ国。それを理解する為に日本人は日本書紀を読め、という普通の人から見れば狂気に近いような皇道思想の持ち主という意味でラスプーチンであるように思います。しかし彼の言っているのはけして彼個人の妄想や冗談ではなく、現在でも右翼などの無視できな数の人が支持するもので、その中には大学教授など知識人(と一般に言われる人)も含まれているのです。恐ろしい!ですから、国家神道にかんする知識の間違いを指摘し、彼ら右翼の天皇への考え方をはっきりと否定することが大事なのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−

*1:国体=日本とは神の子孫である天皇支配の国であるということ

*2:葦津珍彦は、「国家神道とは何だったのか、神社新報社、1987年」で戦前の国家神道下でも信教の自由はあったとしている

*3:佐藤優が理解しているが不明だが、国家神道の下で信教の自由があったのか?神道は宗教なのかは国家神道の問題=天皇による日本の支配、を考える上で論争になる点である。科学的で信頼できる研究者である島薗進は、二重構造があり今考えるような信教の自由はなかったとしている

*4:これらの昔の書物が当時の政治的背景と意図をもとに書かれたものであり、鵜呑みにするべきではないのは常識だろう

はだしのゲンは天皇を許さない

はだしのゲン」は非常によく知られた漫画だが、その中には激しい天皇批判がこめられている事はあまり言及されないように思う。しかし実は著者中沢啓治氏は、非常にはっきりと天皇の戦争責任と天皇制そのもの日本の民主主義への脅威を認識し、怒っている。以下の2007年8月に浅井基文氏(広島平和研究所)によるインタビューにはそれが明確に述べられていた。以下、天皇に関する部分を抜き出し、多少の注記をつける。



要点は以下であろう

  1. 戦前でも天皇制の害悪を明確に認識していた人はいたし、彼らははっきり天皇制を拒否した
  2. なぜ天皇制は恐ろしいのか?=日本人を支配するための仕組みであるから
  3. 中沢氏は60年前天皇制が日本人に及ぼした害悪を裁くべきだし、当然天皇制は廃止すべきだと考えている
  4. 60年前も今も、中沢氏のように天皇制の害悪を認識した人、とそうでない人(日本では多数だ)との認識と行動の差は大きい

「ゲンは怒っている」(中沢啓治氏インタビュー2007年8月)

http://japanfocus.org/_Nakazawa_Keiji-Barefoot_Gen__The_Atomic_Bomb_and_I__The_Hiroshima_Legacy

(前略)
 僕の書いたものの中では権力とか支配者とかに対してもの凄い怒りを表しているが、僕は天皇制のことについて何も言わない奴は信用しない。やっぱり天皇制だ。あの天皇制の恐ろしさというか、その天皇制が今日までなお存在しているということを、日本人は自覚しなければならないのではないか(注1)。またそれを煽って、引っ張り出してくるのではないか(注2)と恐怖感を感じる。

注1:天皇制は廃止すべきであるという事
注2:分裂するまでは「つくる会」の理事を務めた右翼の宗教学者新田均などの主張はまさにコレである

1947年に天皇が広島に来た時(注3)のことはよく覚えている。自伝で書いたことだが、学校側が生徒たちに半紙を1枚ずつ渡した。何をするかというと、15センチのコンパスで丸を書いて、クレヨンで赤く塗れという。竹を拾ってきて日の丸の旗をつくるというわけ。何をするのですか」と聞いたら、「明日天皇陛下が来るから、相生橋の土手に並べ」と言う。僕は親父から天皇制のことを聞かされていたから、「この野郎が親父や一族をむちゃくちゃにしやがったな」(注4)と思うとね。

注3:天皇はまだ広島に生々しい原爆の傷がある時に訪れ、原爆ドームが見える会場で市民の歓迎を受けた、なんという破廉恥!
注4:中沢氏の家族は漫画と同じように原爆で亡くなっている

僕は一番前に並んでいた。黒塗りのフォードが来て、天皇が白いマフラーをして、寒風の中を来た。身体があの寒さの中で火のように熱くなった。「あの野郎が俺たちをこのようにした、親父を殺したんだ」と思うと、飛びついていきたかった。あの衝動は未だに忘れられない。教師は「バンザイせえ、バンザイせえ」という。「何を言うか」と下駄で瓦の破片を蹴った。それがタイヤに当たって、ばーんとはね返った。腹が立った。あれほど全身が火の様に燃えたことはなかった。だからよく覚えている。寒くてね。その中を天皇がのうのうと来る。本当に「こいつ、絞め殺してやるか」という気持ちになった。


天皇を迎えた広島には、天皇に対する怒りとか憎しみとかいうものがまったくないが、その原因はなんだと思いますか、との質問に対し)それはやはり戦前の教育のせいだ。戦前の教育は本当に日本人を変えてしまった。教育の恐ろしさという事をつくづくと感じる。「こいつがポツダム宣言をのんでくれていたら、原爆投下というようなことはなかった」(注5)という怒りはあるわけ。自分たちはのうのうと生き残って厚顔破廉恥な野郎だと思う、と。僕のように天皇に対して激しい怒りを感じていた人もいたとは思うけれども、そういう人たちはみんな獄中死しているのではないか?

注5:天皇は1945年の始めの時期に既に日本には勝利の可能性はない事を認識していた、しかし局面で多少の勝利を収めて有利に終戦交渉を行おうと戦争を継続した様子が、近衛首相との応答で知られている。日本の民間人被害者の80%近くは1945年3月以降に出ている、従って天皇がこの1945年初めに降伏を決断できていれば、多くの日本人民間人は死亡せずにすんだことは明らかである。しかし結局最後まで天皇の判断基準に国民の命や財産を救うという考え方はなく、大事だったのは国体の護持であったことも明らかになっている。国体とは何か?も国家神道を知らなければわからない。国体とは日本は神の子である天皇が支配する国家である、という事である。

僕は親父から言われた。「天皇制は恐ろしいものだ」と。「どうして日本人はこれほど天皇にぺこぺこしなければいけないのか」、と聞くと親父は、「それは日本を統一するためだ(注6)と答えた。現人神にして拝ませていく。そういうシステム(注7)。僕は小さい時からそういう事を聞いていたから、並ばされて「万歳せえ」と言われたときは、本当に腹が立った。怒りがこみ上げてきた。自分のそのような気持ちが広島で表面に出てこないのは、広島が保守的であるためだろう。

注6:これは冗談や思い込みではない、それは国家神道がどのようなものかに関わってくる問題であり、当時も又60年後の現在もなぜか普及されない知識である
注7:システム=即ち、なぜ天皇が国民を支配して当然なのかという理屈付づけである、この理屈は戦前は疑うことを許されない絶対的な真理とされたし、戦後はなんの理由もなく敬うべき人間とされ、理屈ぬきにその結果だけが継承されている

(中略)(「はだしのゲン」が最近もテレビドラマ化されたが、テレビで映像化するに当たっての限界を感じた、との指摘に対して)確かに限界はある。天皇制と言う肝心のところは外しているな(注8)、と。あれはやはりしようがない。僕は天皇制が絶対に許せないと思っている。日本人はまだ天皇制を自らの手で裁いていない。腹が立つ。今からでも遅くはない。ああいう問題を裁かなくては。


(どういう裁き方があるか、との質問に対し)やはり人民裁判だ。日本国民が本当に東京大空襲から始まって天皇の為にどれほど大変なことになったか、根源である天皇制をもっともっと問い詰めなければいけないのではないか?僕は憲法改正について言えば、天皇の条項だけは変えてもいいという立場。あとは変えさせない、憲法9条なんてとんでもない、絶対に変えさせない。


(中略)


(広島がアウシュビッツになれないのはなぜか、という質問に対し)戦争に対する執念が日本人に欠けているのではないか?アウシュビッツの眼鏡の山みたいなところと髪の毛が山みたいになっているところを見ると、やはりすごい執念だなと思う、広島だけではなく、日本人にはああいう執念がない。

注8:「はだしのゲン」のTVドラマは、2007年8月11/12日フジTVから放映された。


参考:昭和22年 天皇の広島巡幸
http://jp.youtube.com/watch?v=-XtxdtxWLj8

歴史修正主義者池田信夫の悪行

池田信夫は「慰安婦は自発的に志願した売春婦にすぎない」と公言する歴史修正主義者です。(慰安婦を自発的という人間を歴史修正主義者と言うべきであるという事は「歴史修正主義の克服」を書いた歴史学教授山田朗氏がそのように指摘しています)。彼は自分で慰安婦について自分になんの知識もないと認めているのに関わらず、そうしたことを公言している。
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/21/28


彼に対し「死ねばいいのに]」というタグがつくのはよく理解できる。なぜなら批判されるべき(少なくとも相当数の至極まともな反論がくる)事をそのブログで公言しながら、自分に対する批判を削除し、新規に書きませず、自分を支持するコメントのみを掲載し、更にそれらをネタに池田の間違いを指摘する者を批判するブログを書くからだ。


確かに「死ねばいいのに」というタグは刺激的だ、しかし上記のような状況ではむしろよく表現している言葉だと言うべきではないのか?まともな人間なら議論してその結果を自分の行動に反映する。池田はそういうものを封鎖しておいて、他人だけを批判する。そういう人間にきつい言葉が投げかけられるのは、当たり前だろう。


池田が自分への「死ねばいいのに」タグをなくす最もよい方法は自分のブログで自身への批判者と正々堂々と議論することだろう。だが、その時は慰安婦問題のように多くの点で彼は自分の間違いを認めざるを得ないだろうが・・・。



<メモ>(id:hatebu_music氏ブログからからのコピーです)
http://d.hatena.ne.jp/lastline/20080604/1212568575

http://d.hatena.ne.jp/buyobuyo/20080604

http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/976e4283567f163f7f92c02cc1e6cddc

http://www.cm.kj.yamagata-u.ac.jp/blog/index.php?logid=7858

http://www.cm.kj.yamagata-u.ac.jp/blog/index.php?logid=6918

http://soulwarden.exblog.jp/7988352/

http://domainfan.com/CS/blogs/mohno/archive/2008/02/03/1755.aspx

http://beyond.cocolog-nifty.com/akutoku/2008/01/post_0be5.html

http://d.hatena.ne.jp/arakik10/20071119/p1

http://b.hatena.ne.jp/hatebu_music/%e6%b1%a0%e7%94%b0%e4%bf%a1%e5%a4%ab/


id:fujixe

神嘗祭を復活させよう(黒い笑いです)

朝日新聞のasparaクラブに入会しました。朝日新聞の記事「100アンサーズ」に非常に興味深い意見があって紙面に載っていないものも含め全部を読もうと思ったからです。

まずはこれから、
質問:「国民の祝日」を自由に変えられるとしたら、どうしますか?(2008年4月27日掲載)

原武史明治学院大教授・天皇研究)

天皇宮中祭祀を行っていることを国民に周知徹底させ、

 戦前と同じように、勤労感謝の日新嘗祭春分の日を春季皇霊祭などと改める。

 また成人の日や体育の日を廃止し、神武天皇祭、神嘗祭などを復活させる。ブラックユーモアですけど。

現在東京都の学校では、始業式などで教員が日の丸に起立し、君が代を歌わないと、譴責され首になるおそれがあります。また職員会議では、自発的に意見を述べることは、慎むべきものとして禁止されています。


なぜ国は「日の丸」「君が代」にこだわるのか?
今まで私には理解できませんでした、まあ国旗・国歌の定めが曖昧だったから、とあてずっぽうに考えていました。国や都も、国歌や国旗をあげるのはあたりまえという曖昧な理由しか言いませんでした。


しかし、最近の勉強でこれは国家神道の復活であるという確信を得ました。いや別に私が発見したわけではなく、東大の宗教学教授・島薗進氏の宗教学関係の論文を読んだだけです。そして既に同じ感覚で現在の日本を分析している原武史氏の発言が、上記だったのです。原武史氏は最近「昭和天皇」という岩波新書を出し、そこで戦時中昭和天皇がいかに神道儀式を大事にし、その母親(大正天皇の妻)が神道を狂信したため影響を与え終戦判断(=神である天皇の敗北を認めることになる)を困難にしたことが述べられています。そして原氏は現在の天皇神道儀式への態度は昭和天皇と同じだと書いています。


実は国家神道は何であったかが、戦後60年あまり触れられてこらず、あいまいな天皇への尊敬のみが押し付けられてきました。しかし60年たった今、日本会議などの右翼はこのあいまいさを利用し、逆に国民を精神的に馴化するため国家神道を復活させようとしているようです。(にわかには信じがたいことですが!)


この背景には安部晋三が最も代表的ですが、彼ら現在の自民党指導者層が戦前の官僚などの指導者層をその祖父などとして尊敬する人々で、戦前の価値観を正面から肯定する人たちだからです。彼らは武力による他国への圧力(つきつめれば戦争です)を悪い事だと思わず、従って日本を戦争を出来る国にしたい。そしてこの関係からその上で旧日本軍が犯した悪行を歴史から消去したいようですね。そのため従軍慰安婦の強制募集や「集団自決」の真実などを否定したいようです。


こうした流れで今の動きを見れば、南京大虐殺の否定、従軍慰安婦への人道侵害の否認、「集団自決」の真実の否認の次の彼らの運動ポイントは、過去の国家神道による精神的強制の否定とその復活なのでしょう。


とりあえず頭記に対応する見方は以下です。

・戦前の御真影への崇敬 → 今現在学校で行われている国旗・国歌の強要は同じ事を意味している


・戦前の国家神道に基づいた祝日を国民全体が祝うこと → 今現在の昭和の日、建国記念日などの存在は曖昧な既成事実として、国民に国家神道が強制させられていること


では国家神道とは何だったのか?なぜ今、復活と言えるのか?それをこれからだんだんと書いていきたいと思います。


参考:東大教授・島薗進氏サイト「国家神道は解体されたか?」http://free.jinbunshakai.net/shimazono/index.php?itemid=77