集団自決の強制の意味は何か?改めて答える

沖縄戦で「集団自決」が強制だったのか否か?という問題は、沖縄戦日本軍が何をしたかに深く関係している。沖縄戦については多くの歴史書が出ているが、大田昌秀安仁屋政昭石原昌家*1林博史大城将保*2などの研究者の結果は一致している。


それは沖縄戦とは、住民全員に対し戦闘を強いた(強制した)戦いであり、その結果、戦闘に参加できない女子・老人・子供は死を強いられ「集団自決」させられた。また戦闘参加を嫌がる者には、戦闘を強いるため見せしめに殺した(その数は多く住民虐殺と呼ばれる)ということです。


これが沖縄戦と集団自決と住民虐殺の関係です。林博史氏などは特に住民に英語を話せる者がおり日本軍がいなければ、集団自決はおきていないことを強調し、心理的に洗脳されたのではなく、まさに「強いられた」事が大きいとしています。


以下は、日本軍のした住民虐殺の証言です。60年前日本がした戦争はこれほどまで残虐だった。しかしその残虐さは日本軍とその背景にある天皇崇拝のせいであり、戦争自体の残虐性とは言えないことに注意すべきです。沖縄戦でも弾薬がなくなり勝機のなくなった時点で牛島指揮官が降伏していれば多くの兵士が助かったし、民間人に戦闘を強制しなければ3人に1人が死ぬような被害は出なかったことは、誰でもわかるはずです。

日本軍による住民虐殺について

石原昌家氏は沖縄戦で日本軍は住民を守るという考え方はなかった、戦闘開始以前から「軍官民共生共死の一体化」が指揮官から唱えられ、住民も軍隊と一体となって死ぬまで戦わせることが、日本軍の方針として明示されています。このため日本軍の劣勢が明確になった時点でも住民も共に死ぬまで最後まで抵抗するという方針が与えられた(1945年3月日本軍資料「秘密戦に関する書類」および5月5日の牛島司令官の命令、石原昌家の記述による)。


加えて住民が米軍に投降するのはスパイ行為だとして、投降者、投降を進める者、なんらかの形で接触した者を殺害することがあった。また壕追い出しや食料を奪うこと、悪性マラリア地帯に強制疎開させることで死に追いやる多くの例がある。それぞれの被害者数は住民が死亡しているためあくまで推定だが、大田昌秀は多くの証言を調べ、壕追い出しで100人以上、食料強奪で60人以上、住民虐殺が290人という数字をだしている(「総史・沖縄戦」および家永教科書裁判での証言大田氏の意見書より)。

日本軍による住民虐殺の証言

糸満市真栄平で豪を奪う:被害女性当時20才。

「私たち一家は日本軍に何度も壕を追い出され、ついに自分たちの屋敷の下に穴をほって避難していました。5月下旬のある夜、日本刀を持った日本兵がやってきて「出ろ!お前達はすぐに出て行け」と怒鳴った。母はよく聞き取れなかったらしく「なんでしょうか…」と身を乗り出したら、いきなり首をはねられてしまった。首は穴の奥に寝ていた金城さんの胸に落ちてきたそうです。  私はちょうど水くみに出かけていた、帰ると穴の近くに眼を光らせた日本兵が一杯いた。「ヒッー」と声にならない声が聞こえ、見ると妹と弟2人がいた、3人とも血まみれで下の弟は腸が見えていてこと切れていた。まだ息のある弟と妹を抱え隣の兵隊のいない壕へ逃げたが、3時間後には息を引き取った。苦悶の中で2人が話してくれたのは、母が首をはねられてから妹達はすぐに逃げた、でも刀を振りかざした3人の兵隊が追ってきて何回もついてこじり上げて、背負われていた弟は腹をえぐられたんです。」(「総史・沖縄戦」より)

壕内で子どもを薬殺:仲間忠一(当時31才)

「私たち40〜50人は阿檀林の中の石の下に隠れていました。2キロも離れた上里の井戸から命がけで水をくんでいましたが、兵隊たちは「水を渡さなければ殺すぞ!」と何度も水を奪いました。ある時米軍がマイクでこの山をガソリンで焼くと言ったので、私は1人で壕を捜しに出かけました。そうすると日本兵が「お前はスパイだ」と言って1人は手榴弾で1人は小銃で殺そうとするです。その壕にいた親戚や部落の人がかばってくれたのやっと助かりました。その晩子どもが泣くと今度は「子どもを泣かせると殺すぞ」と脅しました、そして注射器を持った兵隊が「こどもを静かに眠らせてあげるから」と言って、無理矢理注射をしたのです。4人の子どもは苦しみながら間もなく死にました。」(「総史・沖縄戦」、p207)

天久台高射砲陣地でのスパイ視での処刑:1945年4月28日、大城政英

「大城さんは宮城護衛の近衛兵だったが1944年に満期除隊していた、しかし沖縄防衛のため自ら沖縄に行き故郷の小湾(旧浦添村)の現地軍の下で陣地作りなどをしていた。4月28日小湾に危険が迫ったので天久台の親戚のいる壕に移動しようと壕に入った。すると兵隊が突然「誰だ」と呼び止めすぐに「お前はスパイだ」として刀を抜き殺そうとした。大城さんは軍隊手帳を出し、小湾の部隊に電話して聞いてくれといい、出てきた叔母が自分の甥だと言っても、また天久の区長が言っても兵隊は聞かない。最後に叔母が天久台高射砲陣地の面識のある兵長を連れてきてその兵長が「この人なら私が保証する」と言ってくれてそれでやっと助かった。私が「なぜ沖縄人をスパイだと言って殺すのか」と言うと兵隊は「沖縄人はみんなスパイだから殺せという命令が上から出ているんだ」と言った。しかし、ちょうどその時大城さんと同年輩の男性が、同じようにスパイと言われていて、日本兵はその人を壕の外に連れて行き拳銃で撃ち殺しました。」(家永教科書裁判、石原昌家意見書、p45)

慶良間諸島での軍命の証言:

慶良間諸島の場合は直接的に「集団自決」の命令が日本軍からきたという事が、軍からの命令を受ける立場であった兵事主任の言った内容として残されている。渡嘉敷島では兵事主任富山真順(戦後死去)が、戦後「軍から命令された」と証言しているし、現在でも金城重明氏が兵事主任からその話を聞いたことを証言している*3。また慶良間島では、兵事主任宮里盛秀(玉砕)の父親(宮里盛永)および妹(宮平春子、宮村トキ)が、その晩彼が「軍から命令が出ている」と喋ったことを手記に書いたり、証言(沖縄タイムズ、2007年7月6日*4および「集団自決」訴訟の陳述書)したりしている。

*1:石原氏は、おそらく住民虐殺と集団自決について最も詳しく言及した研究者だが、残念だがまとまった本を書いていない。その見解は裁判での意見書で示されている。この見解に大城将保など他の研究者も同意している。「家永教科書裁判 第3次訴訟 高裁編 第3巻:沖縄戦・草莽隊・教育現場」教科書検定訴訟を支援する全国連絡会 民衆社, 1996

*2:大城将保の見解は2007年放映されたNHK番組「“集団自決”62年目の証言〜沖縄からの報告〜 クローズアップ現代 2007年6月21日放送」でよくしめされている。以下のサイトで番組内容を知る事ができる。http://blog.goo.ne.jp/stanley10n/e/312f9ae10b5a50e5f3407e06d0eb56a8

*3:http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-27030-storytopic-1.html

*4:http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2007-07-09/2007070904_01_0.html