国家神道は何かを理解するために(島薗進)

島薗進氏論文:「国家神道はどのようにして国民生活を形づくったのか?―明治後期の天皇崇敬・国体思想・神社神道」(所収、京都仏教会監修『国家と宗教―宗教から見る近代日本』上巻、法蔵館、2008年7月、243−284ページ。)


この論文は島薗進氏が「国家神道」論の混乱を克服するために書いたものですが、未だ国会図書館にも収納されておらず、読むのが難しいため転載しておきます。これは島薗進氏のブログ(http://free.jinbunshakai.net/shimazono/index.php?itemid=82)に掲載されたものです。


概要:国家神道とは何かが混乱している。従来参照されてきた村上重良の考え方はおおむね妥当だが国家に支えられた神社神道との見方に傾きがちで、国民が自らそれを担った点が見過ごされており、又その影響力を大きく見積もりしすぎだ。これに対し新田均など(右翼的な)神社神道系の学者から批判があり、彼らはその影響力の大きさと期間についてはるかに小さく見積もっており、一部には国家神道GHQの作った幻であるとするような意見もある。


 これらに対し島薗進は両者の間違いを、(1)宗教とは教義や教団組織を持つ明確な輪郭のある文化体系とする近代西洋的な考え方に捉われすぎている、(2)国家神道の中核を神社神道と考えるべきではないと指摘している。つまり、神道を含む宗教とは土俗的・原始的な曖昧な文化体系として考えるべきであり、国家神道の重要な要素とは神社神道も含むが、皇室祭祀こそ重要であると指摘している。


つまり神道は日本の土地と結びついた神々を信仰する土着的・民族的な宗教であり、その神道を背景にした国家神道とは、天皇崇敬や国体の理念を中核としたものである。即ち、国家神道とは、万世一系による聖なる天皇を尊び、神武天皇以来続けられてきた国体を維持し発展させようとする信仰や実践の体系であるとしている。
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一、 国家神道の歴史像(国家神道はどんなものだったのか、何が国家神道なのか)

(従来の説明:村上重良)

  「国家神道とは何か」の理解が混乱すれば、国家神道の歴史の全体像が不明確になるのは当然であろう(島薗 二〇〇一a、二〇〇六a,b)。たぶん逆も真だ。では、これまで国家神道の歴史はどのように描き出されてきたのだろうか。
 国家神道の全体像をコンパクトに描き出し、今なお参照されることが多い村上重良の『国家神道』(一九七〇年)では、明治維新から一九四五年までの国家神道の歩みを「形成期」、「教義的完成期」、「制度的完成期」、「ファシズム的国教期」の四期に区分している。
 「形成期」は明治維新(一八六八年)〜明治二〇年代初頭(一八八〇年代末)で、神社が宗教とは別の国家機関となる体制が決まったこと、宮中祭祀が確立したこと、伊勢神宮を本宗とする全神社の再編成が行われたことが主な特徴としてあげられ、「内容はなお流動的だった」とされる。次の「教義的完成期」は、帝国憲法発布(一八八九年)〜日露戦争(一九〇五年)で、帝国憲法により国家神道は超宗教の国家祭祀として信教の自由と両立するかに装われたが、実際は「神仏基の公認宗教に君臨する国家神道体制が成立した」。また、教育勅語が発布され、国家神道イデオロギー的基礎となり、国家神道の教義が完成したという。


 第三期の「制度的完成期」は、明治三〇年代末(一九〇〇年代後半)〜昭和初期(一九三〇年代)で、国家による神社の統制と財政的支援が強められ、政府は神社をイデオロギー的拠点として動員し、諸宗教との間での緊張が強まったとされる。最後の「ファシズム的国教期」は、満州事変(一九三一年)〜太平洋戦争期(一九四五年)で、国家神道が国教としての地歩を「再確立」し、諸宗教への統制が強化され戦争協力に動員された。国家神道の教義である国体論が侵略を支え、八紘一宇の思想がその根幹とされたという。
 四つの時期は世界史や日本史の時期区分を参照し、政治体制や神社制度や国体思想の影響力の変化に関わる諸事象を踏まえて示されており、おおよそ妥当なように見える。しかし、各時期の特徴づけには理解しにくいところが多い。その主な理由は次の二点である。

(村上重良への疑問)

 (1)国家神道をまずは神社神道に関わること、また、神社神道と他の諸宗教との関係に関わることと捉えるとともに、他方で「皇室神道」や「国体の教義」に関わることと理解しており、それらの関係が明らかにされていない。村上の別の著書、『天皇の祭祀』では、『国家神道』で「皇室神道」とされているものの詳細な叙述がある。だが、それが神社神道や国体イデオロギーとどのような関わりにあり、国民生活にどのような影響を及ぼしたかについての論述はどちらの書物を見てもあまり見られない。また、「国体の教義」がどのような意味で、国家神道の重要な構成要素であるのか、国家神道の構成要素としての「国体の教義」はどのような形で国民生活に根づいていったかについての叙述も乏しいのである。


 (2)国家神道をもっぱら政府が国民に強制したものと捉えていて、国民こそが国家神道の担い手だったという側面についてあまり触れられていない。村上は「国家神道」という語を主に「国家が主体となって国民に広め、押しつけた神道」という意味で用いているきらいがあるが、この語は、「国家と国家の主体である天皇の聖性を信仰の主題とする神道」という意味をも含んでいる。後者の意味での「国家神道」はさまざまな層の国民が担い手となって、それを支え、もり立てていった側面があるが、村上はそうした側面にふれようとしない。これは、(1)で述べたように、「皇室神道」や「国体の教義」が国民生活とどのように関わっていたのかが明確にされていないこととも密接に関わっている。 


 村上の国家神道理解では、国家に支えられた神社神道、つまりは神職層が国体の教義や軍国主義・侵略主義の主たる担い手だったかのように見えてしまう。また、その影響力についても大きく見積もられすぎている。明治維新の当初から国家神道はある程度整った形をもっており、「明治維新から太平洋戦争の敗戦にいたる約八〇年間にわたって、日本人を精神的に支配した」(村上 一九七〇、一ページ)とされ、近代史の始まりに遡って長期にわたり、ひじょうに大きな力をふるい続けたかに見えることになる。

(現在言われている異論)

 こうした見方に激しく反発して、異なる国家神道像、国家神道の歴史像を描き出そうとしたのが、葦津珍彦、阪本是丸、新田均第二次世界大戦後の、また現在も活発に発言を続けている神社神道系の学者たちである(葦津 一九八七、阪本 一九九三、九四、二〇〇五、新田 一九九七、二〇〇三)。彼らは神社神道と国体論を掲げる軍国主義膨張主義全体主義のイデオローグとは必ずしも一致しないとし、神社神道と国体論や天皇崇敬に基づく実践体系とを分けた上で、神社神道国家神道がさほど優遇されていなかった時期のこと、またそうしたことを示す出来事の意義を強調する。


 この立場に立って宗教制度史、神社神道史の研究を進めてきた阪本是丸によると、国家神道の歴史はもっと短いものになり、さらに国家神道イデオロギー的側面も備えた十全な意味での「国家神道体制」はわずか数年だけ存在したということになる(阪本 一九九三、一九九四)。阪本によると国家神道(体制)の成立は一九〇〇年に内務省に神社局が設けられ、それまでの社寺局が宗教局となった時となる。神社と他の諸宗教(仏教・キリスト教教派神道)が行政体系のなかで別のセクションとなり、国家が宗教ではない神社を直接に管轄する体制が整えられた。神社局と全国の神社支援者はその後、一方は他勢力との力関係の調整のために、他方は神社の地位の向上のために、それぞれに努力する。ここで神社局の管理下に置かれた神社神道国家神道である。事実、制度上の用語としての「国家神道」もこの行政枠組みを前提として用いられるようになった。


 だが、神社局が設けられたとはいえ、国家機関となった神社に対する財政的支えはなお薄いものであり、神社の地位を高めるためにより高い地位の官庁として神祇官(「特別官衙」)を設立するよう求める神社界や地域社会からの運動が起こる。これが十全に実現するのは、一九四〇年一一月に神祇院が設立されるのを待たなければならなかった。この神祇院の官制第一条に神祇院が担当すべき職掌として、「敬神思想ノ普及ニ関スル事項」とある。国家神道としての神社神道はそれまで国家次元での思想・イデオロギーにはタッチしてこなかった。神祇院が設立されたこのとき、「純然たる機構・制度としての「国家神道」にはじめてイデオロギー・思想が附加され、いわゆる神道指令の内容に見られる「国家神道」の理解が可能」な事態が現出したことになる。とはいえ、その神祇院さえもたいへん貧弱な体制だったという(阪本 一九九三、一九三ページ)。


 阪本によれば、国家神道の歴史は一九〇〇年から数えれば四五年であるが、その大半はイデオロギーや思想内容には関与しない弱体なものだった。「祭祀の執行と神社の維持以外は何もできなかった神社局・神祇院の官僚と神官・神職。これが制度としての国家神道の本姿であった」(同、一九五ページ)。イデオロギー・思想をもあわせもった国家神道の歴史は四年余りにすぎないが、それも弱体なものだった。「神祇院官僚および神官・神職からただの一人も公職追放者がっでなかったという事実こそ、いかに制度としての国家神道が「超国家主義」「侵略主義」「軍国主義」等の様々なイデオロギーと縁の薄いものであったかの証明であろう」(同上)ということになる。


 葦津、阪本、新田らは国家神道という語を使うのなら、国家制度のなかに位置づけられた神社神道という堅固な制度史的概念に基づいて用いるべきだという。葦津、新田と異なり、阪本の場合は国家神道イデオロギー的側面も考えなければならないとしているが、とりあえずは「制度としての国家神道」の綿密な研究を尊ぶべきだという。こうした考え方は、神社神道こそが国家神道の主要な担い手であるという考えに基づいている。これは地域社会の神社の神職たちが主要な担い手である戦後の神社神道の、教学者的な立場からの歴史像としては理解できるところがある。神道の本流は神職と氏子からなる地域神社にこそあり、国家と密接な関係にあった近代神道の歴史は、何よりもまず神社神道の歴史として考察すべきだという考えがその前提となっている。


 一見奇妙なことだが、実は村上重良も同じように国家神道神社神道が主体だと見なしている。有史以来、続いてきた日本の「民族宗教」が神道であり、それが神社神道に発展し、近代に国家神道の中核となったと捉えているのだ。また、近代の神道は長い歴史をもつ神社神道こそが代表すると見ている。したがって、もし「国家神道」とよべるものがあるとすれば、神社神道こそがその主役だととらえている。これに似た「神道」理解、「国家神道」理解は安丸良夫宮地正人、中島三千男らのマルクス主義近代主義構築主義の系譜を引く歴史学者(広い意味での「啓蒙主義歴史学」とよんでよいだろう)も継承している(安丸・宮地 一九八八、中島 一九七二)。


 昨今はそもそも「民族」というようなものは新しく形成されたものであるから、「神道」も新しく形成されたもので、古代以来、あるいは考古学的時代以来のものなどではない。中世以降に日本の神々を信仰の中心に掲げる集団が成立して以来のものであり、それが神社神道国家神道に発展していったのだと理解されることが多い(井上 二〇〇六)。構築主義の影響下で、近代の「伝統の創造」をあばき、古代以来の民族文化であるとされてきたものが、実は古い伝統であることを装って新たにつくりだされたものであることを示そうとする潮流にのった立場である。ところが、神道神社神道中心に考えるのは、この立場の人々も同様である。宮廷祭祀(皇室神道)が神道の重要な表れであり、神道史を考察する場合に欠くことができない位置をもつことなど、こうした議論ではまったく念頭に置かれていない(島薗 二〇〇六b)

島薗進国家神道説明)

 以上、いくつかの潮流の国家神道理解を概観してきたが、神道学系統の議論にしろ啓蒙主義歴史学の系統の議論にしろ、神道を神社や神職からなる独自の宗教組織を中心にして考えるという点では前提が共有されている。神道という語を用いる時、宮廷祭祀(皇室神道)が念頭に置かれない傾向があるのが、その重要な特徴である。村上重良はこうした前提に引きずられつつも、皇室神道の重要性を理解していたが、国家神道の歴史像を組み立てる際には、なおその利点を生かすことができなかった。このように神社神道に引きずられた神道観が支配的になったのは、「宗教」とは教義や教団組織を備えた輪郭鮮明な文化体系を指すという前提が受け入れてきたことと関連している。このように「宗教」とは他の社会集団と区別され独自の制度領域であり、しかも礼拝施設や専門家(「聖職者」「宗教者」)がその中核に位置するという理解は、キリスト教の前提を負っており、西洋から輸入された近代宗教制度の基礎をなす概念枠組みである。


 しかし、イスラームにしろ、ユダヤ教にしろ、ヒンドゥー教にしろ、このような「宗教」理解からははみ出してしまうところが大きい。これらの宗教文化では、「宗教」と他の制度領域が相互浸透しており、「宗教」組織が「宗教」を代表しているわけではない。もちろん神道もそうした「宗教」に近い。むりやり宗教組織を中心に神道を考えることは、キリスト教キリスト教文化圏の概念枠組みの鋳型にむりやり合わせるようなものである。また、教派や学派に基づく神道集団ではなく、地域社会の神社を構成員としながら神社神道のようにある組織性をもった神道教団が形成されたのは、近代国家形成の作用によるものであることも軽視されている。神道学系統の学者も啓蒙主義歴史学の系統の学者も、近代的な「宗教」概念の偏り(島薗・鶴岡 二〇〇四、深澤 二〇〇六、アサド 二〇〇四、二〇〇六)に無自覚なままに「国家神道」像を描きだそうとしてきたように思える。



 では、「神道」や「国家神道」をどのようなものと見なせば、より実情に即した歴史像が描けるだろうか。宗教とは聖なるものに関する人々の観念やそうした観念にまつわる行為・実践をひとまとまりのものと捉えて指し示す語である。宗教の単位としてキリスト教、仏教、イスラームヒンドゥー教ユダヤ教シーク教ゾロアスター教道教神道などがあげられるが、これらは他と特別されるようなあるまとまりをもった宗教的観念・実践体系を指す語である。神道もそのようなあるまとまりをもった宗教的観念・実践の体系として定義できる。日本の土地と結びついた神々を信仰するのが神道の特徴だ。その神道の一部が国家を中核とする観念・実践体系として新たなまとまりをもったものとして発展していったとすれば、それを国家神道とよぶのが適切だろう。


 神道はかなりの程度、七世紀末までに形成された宮廷祭祀体系に淵源している(二〇〇六b)。次第に仏教に触発されながら民間の神々の祭祀(民俗宗教)も別途、他と特別されるまとまりをもつようになる。中世には仏教の影響を受けつつ、古代宮廷祭祀に関わる象徴・実践群を用いながらまとまった思想や儀礼を掲げて結合する集団が成立してくる。古代の宮廷祭祀と中世以来の神道思想集団がもとになって、江戸時代には天皇の祭祀としての神道を国家祭祀の支柱としようとする思想が力を得る。儒教の影響を強く受けながら、国体理念や宮廷祭祀に重い意義を付与し、政治的目標を掲げる運動が次第に力をもつようになる。国学、水戸学など国体論の担い手が、キリスト教的西洋に対抗できる様な国家神道を構想し、やがて祭政一致(祭政教一致)の理想が尊皇攘夷運動の中核に位置づけられていく。


 明治維新の際には国体の復興による祭政一致(祭政教一致)国家の理念が、近代国家日本の中核をなすべきものとして承認されていった。天皇が自ら神々の祭祀を行い、先祖である天照皇太神、および歴代天皇の神霊の加護のもとに統治し、国民と聖なる天皇とが精神的一体性を保ち続けることで理想的な国家が打ち立てられると信じられた。「祭政一致の布告」(一八六八年)、「皇道興隆の御下問」(六九年)、「大教宣布の詔」(七〇年)などはそうした理念を宣言したものとして、その後の諸政策を方向づける役割を果たした)。明治維新期には国体思想を民衆の天皇崇敬を通して具体化しようとする構想が有力になっていった。「大教」「皇道」はそうした理念を代表する用語だが、私たちが国家神道とよぶものとほぼ同じ内容の体系を指し示している(島薗 二〇〇一b、二〇〇七。

島薗進氏の結論部分)

 国家神道とは、神々の中心に位置する天照皇太神を先祖とする聖なる天皇を尊び、そのようにして神武天皇以来続けられてきた国体を維持し発展させようとする信仰や実践の体系である。短く言うなら、神道は日本の土地と結びついた神々への信仰であり、国家神道とは天皇崇敬や国体の理念を中核とした神道である。神社が神社神道として組織化されていくのは国家神道の形成・確立のきわめて重要な局面をなしている。しかし、国家神道すなわち天皇崇敬や国体の理念を中核とした神道は、皇室神道の形成とその国民生活との関連づけ、あるいは天皇崇敬や国体理念の形成と普及という観点からも見ていく必要がある。神祇(日本の土地と結びついた神々)に関わる従来の諸信仰文化を組み立てて、明治維新以降に形成されていく神社神道は、この意味での国家神道のきわめて重要な構成要素である。しかし、神社神道こそが国家神道を代表するなどということはない。


 このような意味での国家神道は、明治維新の初期から形をなしていたが、当初は少数の人々の信仰や実践として、また彼らが目指す理想国家のビジョンとして存在していた。明治政府は近代国家を形成してくとともに、国家神道が具体化されるような舵取りを課せられたと言える。しかし、当初、構想された国家神道と近代国家のビジョンとの間には齟齬を来すことがあり、さまざまな紆余曲折を経つつ国家神道に関わる諸制度が定められ、広く国民の間に国家神道の観念と実践が根づいていく。国家神道の歴史はそのような観点から時期区分をなされるべきである。

(参考文献)

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