現在では沖縄戦での「集団自決」を指すことが多い。太平洋戦争での民間人の強制集団死である。沖縄戦における「集団自決」が軍の誘導・強制・命令であることは多くの証言がある。「集団自決」においての日本軍の強制があったことは、本キーワードの別項に詳しい。

渡嘉敷村での軍による自決命令の様子>
出典:朝日新聞1988年6月16日(夕刊)、当時の渡嘉敷村兵事主任・富山(新城)真順さんへの取材から
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見出し:軍の自決命令 私は聞いた〜渡嘉敷島の「住民集団死」・当時の役場兵事主任ら証言〜呼集し手榴弾配る・「まず攻撃、残る一個で…」

陸軍を負傷で除隊した富山さんは、1942年(昭和十七年)、郷里渡嘉敷村(当時の人口約1300人)の役場に入った。軍隊に詳しいので、翌年、兵事主任に任命される。徴兵のための兵籍簿の管理、予備役兵の定期点呼、出征兵士の身上調査など、村の軍関係事務のすべてを担当する重いポストだった。
(中略)
富山真順は言う「島がやられる二、三日前だったから、恐らく3月20日ごろだったか。青年たちをすぐ集めろ、と近くの国民学校にいた軍から命令が来た」「中隊にいる、俗に兵器軍曹と呼ばれる下士官。その人が兵隊二人に手榴弾の木箱を一つずつ担がせて役場へ来たさ」

少年たちへ、一人二個ずつ手榴弾を配ってから兵器軍曹は命令した。「いいか、敵に遭遇したら、一個で攻撃せよ。捕虜となる恐れがあるときは、残る一個で自決せよ」。一兵たりとも捕虜になってはならない、と軍曹はいった。

沖縄キリスト教短大の金城重明教授(59才)は言う「日本軍のそばが最も狙われて危ない。23日の空襲、艦砲射撃後、それは住民の常識だった」、「命令されなければ。住民が、食糧も洞穴も捨てて軍陣地近くへ集まるはずはなかった」