集団による自害。狭義では沖縄戦など、太平洋戦争での民間人の強制集団死。
「集団自決」という言葉は戦後使用されはじめたもので、当時は玉砕と言っていた。現在ではその実態が字句と異なるので<強制集団死>あるいは<集団死>、または括弧づけで表記されることが多い。現在2008年度教科書に反映される専門家の見解が公開されている林博史(関東学院大学)の文科省への回答書

<日本軍の強制であるのかについて>

自決とは元来軍人が自ら責任をとって死ぬことであり、沖縄戦でいう「集団自決」では自分で判断できようもない14歳以下の子どもも多く死んでいる(注1)。当時、住民は米軍に捕まればむごたらしく殺されると、日本軍から教え込まれたが、実際に捕まった時にはまったくそのような事はなく、日本軍(友軍と呼んだ)に騙された、日本軍に死に追い込まれた、という認識がすぐに広まった。また玉砕せよと訓話をし、手榴弾を渡した当の日本軍指揮官が、実際には投降したことも、大きな怒りと認識の転換をもたらした(注2)。こうした事から戦後早くに編集された聞き取り記録(1950年「鉄の暴風」)でも、日本軍に命令されたという書き方になっており、その後も体験者の認識はそうした点で一致している。
戦後この点に関する専門家の研究では、(1)皇民化教育により住民が死ぬことに抵抗がなかった全体的な状況がまず重視された、しかしその後研究が進み(2)住民全員を死ぬまで戦闘に協力させる沖縄軍全体の方針(「軍官民共生共死の一体化」という言葉で表現されている)があり、日本軍が最後の瞬間まで住民を利用する方針だったこと、(3)米軍が迫ったら「死になさい」という具体的・直接的な日本軍による訓示が広く行われ、米軍に捕まれば女は陵辱された上で殺され、男は目や鼻を削ぐなど凄惨なやり方で全員殺されるというデマの教え込みがあったこと、(4)実際に米軍が上陸した時には日本軍管理下の手榴弾の手渡しなどを行っていること、などから段階的・具体的に軍による強制がなければおきなかった事態と考えられている。
また軍による強制であることは、軍が同居していない場合は住民は死んでいないケースとの比較などからも具体的に指摘されている。石原昌家氏や林博史氏などが指摘するのは、本島の「チビチリガマ」では退役軍人(在郷軍人とよばれる高齢の軍隊経験者)と従軍看護婦経験者の先導で集団自決が行われ、逆にすぐ近くの「シムクガマ」では英語のできる住民の先導により集団自決は起こらなかったことからよく理解できると解説している。
 

教科書検定意見について>

文科省は、2006年の教科書検定において、教科書の沖縄戦の集団自決に関して「日本軍に強いられた」という趣旨を書いた教科書7点すべてを「誤った理解をする恐れがある」として修正意見をつけ、各社は「集団自決に追い込まれた」などと軍の強制を削除した。(沖縄タイムス2007年3月31日(土) 朝刊 27面 ほか)文科省は判断基準を変えた理由を(1)慶良間諸島で自決を命じたと言われてきた元軍人やその遺族が05年、名誉棄損を訴えて訴訟を起こしている(2)近年の研究では、強制はなかったというのが主流である――などの状況からと説明している。
それに対し沖縄戦の専門家らは、(1)係争中の裁判での片方の主張のみを教科書の記述の参考にするのは間違っている(2)軍の強制を否定する学説はない、とその姿勢を厳しく批判している。、特に軍の強制を否定する学説については、研究者である林博史氏が「ない」と述べている。
 
またこうした「集団自決」という事件が沖縄戦における日本軍による住民殺害の一つの現れであり、久米島での虐殺事件などで知られている、スパイ容疑で住民を軍がなんの裁判もなく殺す、いわゆる沖縄戦での住民虐殺と同じ原因だと考えられている。

渡嘉敷村での軍による自決命令の様子>

出典:朝日新聞1988年6月16日(夕刊)、1945年当時の渡嘉敷村兵事主任・富山(新城)真順さんへの取材から。見出し:軍の自決命令 私は聞いた〜渡嘉敷島の「住民集団死」・当時の役場兵事主任ら証言〜呼集し手榴弾配る・まず攻撃、残る一個で…

陸軍を負傷で除隊した富山さんは、1942年(昭和17年)、郷里渡嘉敷村(当時の人口約1300人)の役場に入った。軍隊に詳しいので、翌年、兵事主任に任命される。徴兵のための兵籍簿の管理、予備役兵の定期点呼、出征兵士の身上調査など、村の軍関係事務のすべてを担当する重いポストだった。(中略)富山真順は言う「島がやられる2、3日前だったから、恐らく3月20日ごろだったか。青年たちをすぐ集めろ、と近くの国民学校にいた軍から命令が来た」「中隊にいる、俗に兵器軍曹と呼ばれる下士官。その人が兵隊二人に手榴弾の木箱を一つずつ担がせて役場へ来たさ」

少年たちへ、一人2個ずつ手榴弾を配ってから兵器軍曹は命令した。「いいか、敵に遭遇したら、1個で攻撃せよ。捕虜となる恐れがあるときは、残る1個で自決せよ」。一兵たりとも捕虜になってはならない、と軍曹は言った。
沖縄キリスト教短大の金城重明教授(59才)は言う「日本軍のそばが最も狙われて危ない。23日の空襲、艦砲射撃後、それは住民の常識だった」、「命令されなければ、住民が食糧も洞穴も捨てて軍陣地近くへ集まるはずはなかった」
沖縄戦の研究者、安仁屋政昭・沖縄国際大教授(53才)は住民集結命令の意味を次のように説明する。「沖縄戦では住民のほとんどが軍に動員され、陣地造りや弾薬運びなどに使われた。住民が米軍の支配下に入ると、戦闘配備が筒抜けになると日本軍は恐れた。兵力のない渡嘉敷島では、それを防ぐ手は、集団自決の強制しかあり得なかった」

43年後の今になって、なぜ初めてこの証言を?富山さんは答えた。「玉砕場のことなどは何度も話してきた。しかし、あの玉砕が、軍の命令でも強制でもなかったなどと、今になって言われようとは夢にも思わなかった。当時の役場職員で生きているのは、もうわたし一人。知れきったことのつもりだったが、あらためて証言しておこうと思った」

注記1

例えば「チビチリガマ」の死者の1/3は14歳以下であり、実際的な事実として幼児なども親などにより無理心中させられている。しかし「援護法」の認定により14才以下の子どもも「集団自決」で死んだと認定されており、国(防衛庁)による公的な記録ではこれら子どもも「戦闘協力者」と分類し、防衛庁は彼ら幼児が、日本軍兵士の憂いを除くため自ら愛国的精神で死んだ、とその戦史に記している。「集団自決」という言葉が括弧づけで使われる理由の一端がここにあろう。

注記2

慶良間島では、米軍に捕まったら死になさいと訓示した梅沢隊長は、住民が集団自決した後1ヶ月以上も、その任務である特攻をすることもなく自陣に籠もり続け、ついに自決することもなく米軍に投降した。あまつさえ食料事情のよくない中、太った「慰安婦」を連れて投降した。かつて友軍と呼び自分たちを守ってくれると思っていた住民はその姿に石を投げつけた。つまり1945年8月の段階で住民には、本来玉砕する必要はなかったし、日本軍が嘘を教え裏切ったことは明らかだった。米軍が壕を包囲した時、それ以前に保護された住民が自決せず投降するよう呼びかける事が多く行われたが、日本軍はそれを「スパイだ」として殺害した。集団自決がおきる上で、日本軍による嘘の情報と、投降しようとすれば逆に日本軍に殺されかねないという状況があり、住民にとって体験的に日本軍により追い込まれたものであることははっきりしていた。