ネグリまたはマルチチュードに関してメモ

以下は2008年3月29日東大、3月30日芸大、で開かれたアントニオ・ネグリ氏に関する講演会に関してのメモ。(多少いじる)
東大イベント:http://www.negritokyo.org/todai/
芸大イベント:http://www.negritokyo.org/geidai/

ネグリ氏からの質問

東大のイベントではネグリ氏は日本人に対して次の質問を用意していた、しかし討議する時間はなかったのが残念。
「(日本では)デモ行進している一団は交通信号を守る。それはどういう事なのか、なぜ守るのですか?」
これに関して私が思い出すネグリ氏の言葉は、「<帝国>より先にマルチチュードが存在するのであり、<帝国>のためにマルチチュードがあるのではない」これに似たことを先日のテレ朝の朝まで生テレビで「反貧困」(岩波新書)を書いた湯浅誠氏が言っていましたね。

ワーキングプアは次の仕事がなければ死ぬしかない所に追い詰められている。経団連は日本の景気回復や国際競争力アップのため我慢しろというが、ワーキングプアから見て、何もしてくれないのならば国家など存在する意味はない」

abesinzou 2008/04/01 19:07

私もネグリのイベントに東大へも芸大へも行きましたが、芸大のはあまりにダメダメでかえって面白かったですね。おそらく芸大ではネグリマルチチュードを使って外部の芸術(=新しい芸術)を想像/創造する知的ヒントを討論したかったのでしょう。
さて、芸大の3/30 13:30からの討論は面白かったですね。私は田中泯も廣瀬教授のいう事もよくわかる気がする。

 そこで敢えて対立点がわかるように質問します。


(1)田中泯が僻地で一人農業をしてもそれは商品経済という形で全体の「生産」に組み込まれている、彼は自分ではネグリの言う事と関係ないと思ってもそれは単に自分の状況が見えていないだけだ。田中泯は「内部しかない」と開きなおったが、内部の芸術=旧弊で既知の芸術でありそれはよい芸術ではない。芸術家は全て現在形で未知の芸術=外部の芸術を目指している訳で、その点で田中泯も常に外部を目指している筈だ。田中泯には自分のしている事が判っていない。結局田中にはネグリの言う現在の問題点・対立点を理解できず、内閉し自己反復しているだけだろう。


(2)もう一つ芸大討論会に決定的に欠けてるのは政治的な視点でしょう。アフリカの国がEUの補助金つきの安い農業生産物輸出の為に国内農業が成り立たず、貧困にあえぐ姿がある。又コーヒーなどの農産物は先進国市場が定める不当に安い価格(まさに<帝国>!)のため本来期待できる対価を受け取れない。こうした姿を多くの人々は問題にするしネグリは理論化し一般化して記述している。貴殿はアフリカにも行かれたようですが、アフリカの人々が幸福になれないのはこうした豊かな国の国民の無理解の為ではないのですか?あの議論は本来それを抉り出していたはずでは?

田中泯も含め芸大の芸術家にはそれがまったく視野にないように思う。それで芸術はよいのか?既に人々の関心がそこにある時に芸術家はそれが政治的だ、という理由で無視していいのか?

abesinzou 2008/04/05 01:45

私の関心は社会やメディアや芸術なのでネグリの本自体ではなく、その具体化にしか関心がない。その点で東大の上野千鶴子の発言は大変刺激されました。しかしせっかくの機会なので多少のQ&A。


>質問1:田中泯が全体の「生産」に組み込まれている証拠
今農業を仕事にしていても完全孤立は不可能です、生産物を販売し現金を得なければならない。価格は市場が決め、その市場はいまや世界とつながっている、田中の作った野菜の価格はアフリカのものと比べられ、その比較の時には<帝国>が介在する。アフリカの農民がEUから輸入された商品と競合するのも同じ意味です。


廣瀬氏は「芸術とマルチチュード」の後書きでネグリの認識の基礎(第1段)は、「資本のもとへの実質的包摂による生産物」としての「ポスト近代」を「いま、ここ」のただなかにおいて同定してみせることである。としています。ネグリは人々が完全に包摂されるという事を言っていると思います。


>質問2:内部とはどういうこと?田中の内部とabesinnzouの内部は同じなのか?その根拠は?
最も大きな根拠は私は田中泯のような旧弊で老齢でベテランの専門芸術家を身近に知っており、彼の思考から類推すればこれ以外ないと思うからです。芸術家は常に新しい真の世界を表現することを目指している、それは普通は内部にはなく外部にしかない。田中のような人間が外部と言われればそれを考えるでしょう。


さて内部とは何か?ネグリの考え方と一致するのかは不明です。しかしネグリ講演集下のp51では内在性の思想をいい「この世界は外部を持たない、この世界の構築と必然性はこの世界の内部にある」としており更にマルチチュードの蜂起がそれまでの状態を変えもう一つの世界の樹立可能性を指摘しています。また廣瀬氏も「芸術とは前衛であり、前衛とは芸術である」とした上でネグリにとっては前衛とは、大衆の外部にあって指導するもの(前衛/大衆)ではなく、大衆そのものの内部にあるもの(前衛=大衆)だとしている、と後書きで書いていますね。


今までの芸術家は外部を求めて努力を続けたが、彼らは本来的にそこには外部など有り得ない事を知っていた。だから田中は内部しかないと「開き直った」。しかしネグリ&廣瀬は内部の意味の転換そのものを論じたかったのでしょうね。しかし私はそんな簡単に、芸術=前衛=内部=大衆に芸術的に良いものがあるとは思えませんが如何でしょう?


>質問3:ネグリの言う現在の問題点・対立点とは具体的に何?
これは<帝国>による人々の支配ではないですか?具体的にはグローバリゼーションによる様々な弊害でしょう。身近に言えばワーキングプアであり、アメリカの資本の論理が世界に戦争を招くこと、日本の商社がエビを買うため東南アジアの自然が破壊されることでは?


>質問4:あの場の議論はネグリの芸術に対する考えでは?
あなたの指摘通りだと思います。私は政治的な部分に関心があったので勘違いしていました。


>質問5:芸術とそれ以外の区別は?芸術はなぜ政治的であらねばならないのか?
ネグリの本(「芸術とは集団的労働であり、そのマチエールは抽象的な労働である」、p110)でも又あの場でも、生活=労働=芸術だ、従って区別はないのではありませんか?
 そして私としては今の芸術が目指すべきはそうした政治的問題だと思う、なぜならそれが一番インパクトがありそうした作品が受け手に最も感銘を与えると思うから。またネグリの考え方を押し進めたとき、世界と鑑賞者の関わりが政治的で戦争状態にある事を示した作品を示すことが、最も前衛的で、緊急で、価値があるという結論になると思うからです、如何でしょう?

abesinzou 2008/04/05 02:02

>美術家がときに外部へと至るのは、偶然を利用するとき
これはあると思います、自分の芸術形式・方法論・問題意識をつきつめ、繰り返した際に、自分の論理思考の帰結ではなく何かの偶然が外部をかいま見せる、彼はそれを自分の形式の中で固定する事はあるのではないでしょうか。

abesinzou 2008/05/19 00:23

労働組合や自給自足の生活圏は、一度〈帝国〉に飲み込まれてしまった
>一度負けた旗印を掲げて、もう一度勝つことができるの
マルチチュードの説得力の薄さはこれに起因
ネグリはそんな事言っていませんよ。第1部の議論でも、自給自足の生活なんて今の世界には有り得ないと廣瀬氏も言っていたはず。まして労働組合なんてあてにしていない。


これは芸大の前日にあった東大でのネグリの催しで言われたいた事ですが、やはり日本語に訳さなかったのに問題があるのでしょう。翻訳家はマルチチュードとは「多数衆」で良いのでは、といっていましたよ。少数の支配者、資本家に対して、本質的に多数の人間が、それぞれの差異を保存したまま、それぞれ主張する、それがこれからの政治的主体だという事でありましょう。


これを今の日本にあてはめれば、選挙の際に、労働組合の組織票ではなく、様々な団体、個人がそれぞれ主張しながら結果として一つの流れを生み出す、というようなものでしょうね。