右翼の天皇観、国家神道観(中西輝政にみる)

<現在の右翼の天皇制への考え方>
靖国神社の国家観、日本会議など右翼の考え方の一端を中西輝政の本「皇室の本義」から示します。ここで中西が言っていることは、まるで日本人が古来から天皇を崇拝してきたし、それが日本的なことなのだと、もともと天皇崇拝が自然なことであるかのように言っています。しかし島薗進は、実はそれらは明治維新以降の、特に昭和始め以降に国民に教化されてきたものであることを研究で示しています。中西の言ってることは一見論理的だがほぼ戦前の天皇制(=国家神道)の復活でしかありません。


以下、「皇室の本義」中西輝政福田和也PHP出版、2005年(以下引用部分は全て中西の発言)から

中西輝政(=右翼)の天皇観の要点

  1. 天皇は本来は元首である(天皇が古来から主権者であり、現在の憲法はおかしい)
  2. 天皇は国家的な祭祀大嘗祭など祖先への礼拝)を行うから尊い
  3. 日本人は本来的に日本の心(やまとごころ)をもっており、それを体現しているのが天皇
  4. 古代から天皇が日本の中心であり、皇室はそういう伝統をもっており、日本人はそれを支持してきた(注記:しかし天皇や皇室の伝統、日本人が明治以前から天皇を崇拝してきたなどについては、嘘であることが、島薗進の研究ではっきりしています
  5. 天皇制はGHQによりゆがめられたが、それは表面的なことで、今も日本人は政治と宗教の中心として天皇を支持している

中西=日本人とは国と心を一つにするもの、国を体現するものが天皇

日本古来の考え方で言えば、「国」と「心」は一つで「国体」とは、日本的な心のあり方を示すもの。それをひらがなで「やまとごころ」と書く学者もいる。日本的な心根こそ国体である。こうした「日本の心」を目に見える形でもっともはっきり示すものが「天皇」である。これは日本国憲法で書かれている日本の象徴ということと矛盾しない。(p17)

中西=宗教的存在としての天皇こそが大事

日本人が今深く自覚すべきなのは宗教的存在としての天皇である。天皇の系譜をたどれば神話まで行き着く、その天皇が日本国の繁栄と国民の幸せを祈って日夜祭祀をなさっている、それゆえ天皇が日本という国家を体現し国民を統合する役割を果たせるのだ。


そのことを我々の天皇観の根底にしっかり持っておくことが何より大切なのである。それは単なる文化の営みではなく、大きな意味での政治そのものであり、まさに国家を指導する営み(まつりごと)である。そしてこれこそ、古代につながる天皇の存在理由である。だからこそ皇室は尊いのであり、天皇のこの側面こそ今日本人が一番忘れていることだ。


しかし今でもそれに正しく気づけばおそらく日本人なら誰でも、素直に感動し感謝の心が生じるはずである、それが変わることのない「日本のこころ」だからだ。昔はそれを「皇恩」と呼んだ。これがこの国の形、すなわち日本のこころであり、いかに他の国と違っていようとも、ここに日本文明の核心があるのである。(p30)

中西=天皇が偉いのは祭祀(宮中祭祀大嘗祭など)を司るから

王室を中心に国民道徳の涵養に腐心することは、この百年ないし二百年、つまり近代に入るにあたって、どの国の王室も経験したことだと思います。ただ日本の場合他国と横並びに出来ないキリスト教圏の君主制ではないということです。一番重要なのは日本の場合、天皇の本質がすぐれて「宗教的存在」であるということです。「祭祀を司る」というところに日本の天皇の一番の本源がある。(p72)


祭祀は大切で皇室の存在の核心である。だからといって科学的思考や合理主義という価値がないがしろにされるような方向は絶対にならない。私はこれを信仰に裏付けられた深い合理主義だと思います。これこそ日本の皇室がもつ、ものすごく強靭な文明装置なのです。(p145)

中西=天皇の最大の仕事は宮中祭祀であり、日本人にてって重要なのだ

ここでもう一度宮中祭祀の話に戻りたいのですが、いま宮中祭祀の問題について日本の政治家もオピニオンリーダーもほとんど関心を持っていません。しかし宮中祭祀に関する議論を抜きに皇位継承問題やそれに関わる皇室典範改正問題について語ってもほとんど議論したことになりません。


天皇陛下の御公務の中心は祭祀といって過言ではありません。これに圧倒的な時間をお取りになっていらっしゃいます。(中略)「開かれた皇室」ということが言われるときに、宮中祭祀を含めた広い意味での「宗教活動」を国民に伝えようとしないことが不満でならないのです。とくに今上陛下は歴代の天皇以上に、全身全霊をこめて祭祀活動をなさっておられる。この意味の重要性について国民が考える上で、皇室報道にとって非常に重要な側面だと思うのです。それはけっして皇室の「私事」などではないからです。(p135)

中西=明治の日本人は祭祀と合理性、両方を大事にしてきた

そして国民の側にも「五箇条のご誓文」以来あるいは「終戦詔勅」にあったような、「日々世界の進運に遅れず」合理的開明的な姿勢をはっきりもつ、という現実への姿勢があり、一方で祭祀を重視しこの国の根幹をたゆまず保持していく心の姿勢があった。(中略)


ところが国民の方が、それらを2つながら保持するという、大きな大和心をどこかの時点で失ってしまった。おそらくは大正ないし昭和の戦前期でありそれが戦後もずっと続いている。(p146)

中西=天皇崇拝・国家神道は有史以来の日本の伝統である

明治以前に皇室は122代という連綿とした歴史を経てきたわけですから、皇室伝統に関して、大半は明治以前に出来上がったというのが前提です。(中略)


天皇陛下に対する明治以来の全国民的な崇敬の念は、日本人の心の根幹にはっきり残ったのです。これを明確に示しているのが、昭和天皇が戦後、全国を行幸なさったときの映像です。おそらく占領軍当局が撮ったのでしょう、今もビデオで見られますが、広島の平和公園に大群衆が集まり、遠景には被爆した原爆ドームが映っているというものです。そこに集まった見渡す限りの大群衆がお立ち台に立たれた昭和天皇に対して「天皇陛下万歳」と聖寿万歳をしているのです*1


これこそ私は明治以来の天皇制が戦後も連綿と続いていることを示す何より雄弁な姿であり、近代天皇制のおおいなる高まりでさえあったと思います。(p107)

中西=政教分離は間違い、天皇が政治と宗教を同時に司る事こそ、日本の伝統でで正しい姿

ここで大きな問題としてたちふさがるのが憲法二十条(信教の自由)との関係です。たしかに二十条は信教の自由の名の下に、国及びその機関が宗教活動をすることを禁じている。(中略)


しかしこのような政教分離論は根本的に間違っています。歴代天皇はどこへ御旅行されようと必ず「三種の神器」を一緒に持っていかれます。どこにお泊りになっても毎朝伊勢の皇大神宮に向かっての遥拝は欠かさずなさっている。


これらは非常に重要な国事でもある。国事としてなさっているからこれは公務でもある。それをまったく理解せず、誤った政教分離論に基づいて本来あるべき皇室報道が阻まれているとしたら、現憲法の最大の問題点と言わねばなりません。(p137)

*1:この光景は日本人の愚かさをしめしていて恐ろしいです、これに対する見方を幣ブログに書いた中沢啓治氏の感想とくらべてください