昭和天皇はどれだけ戦争に関わったのか?天皇の戦争責任

天皇の直接的な戦争指揮に関する疑問と回答>
以下は、山田朗教授の「大元帥 昭和天皇」(新日本出版社,1994年)の、あとがきより抜粋したものです。


昭和戦争史に果たした天皇の役割とその戦争責任」
昭和天皇はどれだけ戦争に関わったのか?天皇の戦争責任を否定する直接的な戦争指揮に関する次のような質問について、山田朗教授(関東学院大)は専門の近代軍事史の研究成果から答えています。


(疑問)

  1. 天皇は軍事には素人で、戦争には主体的には関わらなかったのではないか?
  2. 戦争は軍部の独走であり、天皇はそれを抑えようとした平和主義者だったのではないか?
  3. 天皇は戦争について実態を知らなかったのではないか?(軍部は天皇に情報を与えなかったのではないか)
  4. 天皇が決断したからこそ、戦争が終わり平和になったのではないか?


(回答)山田朗氏が自著のあとがきでまとめたもの

戦争への天皇の主体的関与について

天皇は「御下問」「御言葉」を通じて戦争指導・作戦指導に深く関わった。天皇は作戦について統帥部の方針や作戦の進め方を無条件で認めていたわけではない。とりわけ、次の事柄については大元帥昭和天皇の発言は、作戦計画あるいは具体的な作戦内容を左右する大きな影響を与えた。
  1熱河作戦の一時差し止め(1933年)
  2二・二六事件における反乱軍の武力鎮圧方針の決定(1936年)
  3日中戦争初期の兵力増強、戦略爆撃実施方針の決定(1937年)
  4張鼓峰事件における武力行使方針の一時差し止め(1938年)
  5「昭和14年度帝国海軍作戦計画」の修正(1939年)
  6宣昌再確保への作戦転換(1940年)
  7フィリピンバターン要塞への早期攻撃の実現(1942年)
  8重慶攻略の方針の決定と取りやめ(1942年)
  9ガダルカナルをめぐる攻防戦における陸軍航空隊の進出(1942年)
  10ガダルカナル撤退後のニューギニアにおける新たな攻勢の実施(1943年)
  11統帥部内の中部ソロモン放棄論の棚上げ(1943年)
  12アッツ島玉砕後における海上決戦の度重なる要求と海軍の消極的姿勢への厳しい叱責による統帥部ひきしめ(1943年)
  13陸軍のニューギニア航空戦への没入(1943年)
 14「絶対国防圏」設定後の攻勢防御の実施(ブラウン奇襲後の軍令部の指示など、1943年〜1944年)
  15サイパン奪還計画の立案(1944年)
  16沖縄戦における攻勢作戦の実施(1945年)
  17朝鮮軍関東軍への編入とりやめ(1945年)


昭和天皇は軍事に素人などではけしてなかった天皇大元帥としての責任感、軍人としての資質・素養はアジア太平洋戦争において大いに示された。開戦後、緒戦においてあるいはミッドウェー海戦敗北に際しても、天皇は泰然としているかに見えたが、それは総司令官はいかなるときも泰然自若として、部下将兵の士気高揚を図らねばならないという、昭和天皇東郷平八郎から直接・間接に学んだ帝王学・軍人哲学を実践したものであった。しかしガダルカナル攻防戦における統帥部の不手際を目の辺りにして天皇は、次第に作戦内容への介入の度合いを深める、天皇は並々ならぬ意欲で作戦指導に当たったが、日露戦争の作戦指導を引き合いに出して作戦当局に注意を与えたり、目先の一作戦に拘泥せずニューギニアでの新たな攻勢を要求したりするなど、軍人としての素養を大いに示した。


昭和天皇はあくまで政治と軍事の戦略の統合者として世界情勢と戦況を検討し、統帥大権を有する大元帥として、統帥部をあるときは激励あるときは叱責して、指導しようとした。また前線将兵の指揮沈滞を常に憂慮し、自ら勅語を出すタイミングに気を配っていた。


1943年5月にアッツ島が玉砕すると、戦争の将来に漠然とした不安を抱いていた天皇は、統帥部に執拗に「決戦」を迫り、その期待に応えられない永野軍令部総長は信頼を失っていく。天皇はイタリアの脱落というヨーロッパ情勢をあわせて考慮しながら、見通しを持った戦争指導の確立を求めた。そのポイントが米軍との海上決戦であった。


しかしそれが不可能なことを知ると基本的には陸軍統帥部の持久戦戦略=「絶対国防圏」構想を支持した。だがそれでも陸軍統帥部の受動的姿勢と海軍統帥部のマーシャル決戦論とは、自らは一線を画し攻勢防御をとることを主張した。


天皇の判断行動はどれをとっても大元帥としての自覚と軍人としての豊富な知識に支えられたものであったと言えよう。ただ昭和天皇が並外れた戦略家でったとか、奇抜な戦術家であったという訳ではない。天皇の戦略眼や作戦における着目点には、非凡なものがあったのは確かであり、統帥部の戦略・作戦の欠陥を見抜く力を持っていたが、有力な代案が提起できるほどの独創性があったわけではない。天皇の提案が現実の作戦に少なからず影響を与えたのは、天皇大元帥としての権威という面もあるが、天皇と同じ意見の軍人が必ずといってよいほど統帥部にいて、天皇の発言を最大限に利用して自説の貫徹を図ったからである。


平和主義者天皇の膨張論

昭和天皇は軍部による手段を選ばない強引な勢力拡張、戦争路線に常に賛成していたわけではない。1933年の関東軍による熱河作戦、1940年から1941年の南進路線と統帥部の対英米ソ開戦論への傾斜に対して、天皇は基本的には慎重論を持って対処しようとした。しかし天皇には統帥部の膨張論・開戦論を押し返すだけの積極的な論理がなかった。これは性格や人間性の問題ではなく、天皇が統帥部のマキャベリズムに対抗できるだけの哲学を持ち合わせていなかった、ということである。


天皇が有していたのは「八紘一宇」の政治哲学で、領土勢力圏の拡張を君主の事業と見る点において、統帥部の露骨な膨張主義・機会便乗主義の潮流に埋没せざるを得なかった。また昭和天皇はどのような軍事行動であれ、戦闘に勝利し結果として「国威発揚」に寄与した場合には、賞賛を惜しまなかった。


満州事変における関東軍朝鮮軍の独断専行の軍事行動、熱河作戦、張鼓峰事件など当初は天皇の怒りをかったが、戦果が上がると天皇は一変してこれらの行動を事後承認しただけではなく、勅語を出すなどして賞賛・激励したのである。
 これは勝てばよい良いという考え方というより、満州事変・日中戦争の際に明確に現れたように、あくまで欧米大国との直接的な干渉、それらとの衝突をひきこおこすか否かという計算の面が強い。大元帥としての天皇が何より恐れたのは、軍部の独断専行ではなく、将兵が士気を失ってしまうことであった。従って戦闘に勝利した場合には、必ずといってよいほど「嘉賞」(お褒め)の言葉を与えた。このような天皇の結果優先、事後承認の姿勢は、結果として軍部の独断専行の武力戦や謀略を奨励・激励することとなった。


天皇が軍部にありがちな精神主義、冒険主義に嫌悪感を持っていたことは確かである。天皇が対英米開戦になかなか踏み切れなかったのも、軍部が早期開戦論を唱えつつも、長期戦に移行した場合の見通しを一向に示さないことに原因があった。天皇は1941年9月6日の御前会議の時点では開戦論には踏み切れなかった。それは前日の両統帥部幕僚長とのやりとりでも明らかである。しかし統帥部はこのとき天皇を説得する重要性にあらためて気づき、10月半ばから、初期進攻作戦においても長期持久戦においても、十分な勝算があると具体的に論じるようになる。勝利の勝算という事が最大の不安であった天皇は、近衛内閣の末期から東條内閣の成立期において、統帥部の論理に基本的に説得されたといえる。


天皇の「平和主義」とは、帝国主義国家の君主として、なるべくなら露骨な手段を使わずに、「平和」的に領土と勢力圏を拡張していこうという、一種の穏健主義ということであり、当然のことながら絶対的平和主義などではないのである。


天皇に集中されていた軍事情報

日中戦争、アジア太平洋戦争を通じて、天皇には常に最重要、最新の軍事情報が提供されていたのは確かである。陸海軍双方の軍事機密情報を同時に検討できる立場にあったのは天皇ただ一人であった*1。戦況上奏あるいは速報(電報)を通じて天皇に報告される情報は膨大なものであったが、天皇はけしてそれらを聞き流していなかった。しばしば戦況に関して自らあるいは侍従武官を通じて下問し、敵の作戦企図を推理していた。
 天皇が受ける報告は、統帥部自体の情報収集・審査判定能力の欠如から、戦火に関してはしばしば不正確・過大であったが、少なくとも自軍の損害については、天皇は最も正確に知りうる立場にあったと言える。


天皇の決戦へのこだわりと聖断シナリオ

1994年2月トラック諸島が連合艦隊の根拠地としての機能を喪失し、ラバウルが孤立化して絶対国防圏の崩壊が始まると、天皇は次第に戦争指導、作戦指導に関する積極的な発言をしなくなる。しかしこの時期に到っても天皇東條英機への信任は揺るがなかった。さすがにサイパンに米軍が来攻すると天皇はその確保・奪還をかなり執拗に要求するが、あきらかに指導意欲は減退していた。


1945年2月近衛ら重臣の上奏を受けても、基本的には統帥部の決戦後講和構想の枠から意識的に離脱することは出来なかった。しかし、沖縄戦が始まると天皇は危機感を深め、焦慮からか久々に作戦内容に立ち至った発言を繰り返し、かえって作戦を混乱させてしまう。


聖断方式による終戦シナリオは沖縄戦以前から天皇周辺で練られていたが、転換時期の判断が難しく、また天皇が基本的に統帥部の決戦後講和論を支持していたため、なかなか発動するきっかけがつかめなかった。ドイツが敗北し沖縄戦の希望がなくなった時点で、天皇はようやく終戦に傾斜するが、それでもなおソ連への講和斡旋要望など、指導層の混乱から聖断シナリオは依然として発動されなかった。原爆投下ソ連参戦という軍事的破綻をきっかけに、天皇は宮中グループの聖断シナリオにのり、本土決戦に執着する軍部に継戦を断念させた。


第2次世界大戦はすでにマリアナが陥落した1944年6から7月に最終段階に入っており、以後の天皇と統帥部の決戦への執着が、いたずらに犠牲を拡大させたのである。歴史的に見れば、天皇が聖断シナリオにのって最後の最後に決断したから戦争が終ったことよりも、マリアナ失落という、決定的な転換期に決断しなかった為に戦争が続いた、ことの方が重要だろう。


昭和天皇の軍事思想

次に主にアジア太平洋戦争中の天皇の作戦に関する発言を分析してみて、昭和天皇の軍事思想はどのようなものであったか考えてみよう。天皇の軍事思想とはあくまで最高統帥者=大元帥としての軍事思想である。どのように作戦を立てるかという幕僚の軍事思想ではなく、軍の最高統帥者はいかにあらねばならないかという思想である。
 その点で常に昭和天皇の念頭にあったのは、大元帥は部下将兵の士気を崩壊させてはならない、ということである。天皇はしばしば統帥部の幕僚や前線の将兵が士気を低下させていないかどうかを注意している。


苦戦であればあるほど、軍を統率するものは、動揺を部下に見せてはいけない。すくなくともガダルカナル戦までは天皇はこの原則に忠実であった。それ以降はなかなか泰然としてはいられなくなったが、それでも少しでも戦果が上がれば、統帥部と前線将兵に満足の意を示し、かつ更に奮闘するようにと激励を重ねた。


とりわけ前線の指揮官にとっては天皇が作戦を称揚したり、事態を憂慮したりすることは自らを奮起させたり、反省させたりするような重要な契機となっていた。天皇も自らの激励の効果をよく知っていた。その意味で天皇は自らの軍事的役割をよく自覚していたいえる。統帥部も前線の作戦部隊に具体的な勝利のてだてを与えることが出来ない場合(命令を出すに出せない場合)、「勅語」や「お言葉」を伝達することで、部隊が実力以上のもを発揮することを期待した。だが、それは沖縄戦の例からわかるように、しばしば無謀な作戦を現地部隊に強いることになった。




また天皇は精神的支柱であることを超えて、具体的に作戦に介入したが、そこに表れている軍事思想は先制と集中の原則に忠実なかなりオーソドックスなものであった。天皇は古今の戦史からよく学んでおり、作戦指導の本筋はどうあるべきか、ということには自信を持っていたように思われる。天皇は、どちらかといえば「寡をもって衆を撃つ」奇策をもって「作戦の妙」と考えがちだったが統帥部の戦術家、とは肌合いを異にしていたといえる。


しかし原則に忠実なオーソドックスな考えといっても、それと同時に天皇は徹底した攻勢主義者であった。攻撃偏重主義といってもよい。その点天皇は日本軍の軍事思想を忠実に学んでいた、その現われとして、天皇ガダルカナルでの膠着・消耗をニューギニアでの攻勢で挽回しようとしたり、ソロモン方面でも海軍に積極的に攻勢に出るように、しばしば要求している。天皇の攻勢主義は戦争末期に到っても変わらなかった。沖縄地上戦での攻勢の催促はそのことをよく示している。


天皇の戦争責任について

天皇の戦争責任を否定しようとする議論には、大別して(1)天皇憲法上の権能からの否定論(大日本帝国憲法の条文を根拠とする否定論)(2)天皇の実態からの否定論とがある。


本書では(2)の実態からの否定論に対する全面的かつ実証的な批判となっている。天皇は戦争に主体的に関与しなかったとか、天皇が決断したからこそ戦争が終ったのだ、といった議論は全て成り立たない。

もし「成り立つ」という論者がいるなら、具体的に史実に即して反論すべきである。明確な根拠を挙げないで「天皇は平和主義者だったに違いない」「軍部は天皇に情報を伝えていなかったに違いない」といった憶測に基づく議論は、何ものも生み出さない。


回答まとめ(abesinzouによるまとめ)

  1. 天皇は軍事には素人で、戦争には主体的には関わらなかったのではないか?  →  天皇は十分な量の軍からの情報と、豊富な軍事的知識とを持った軍事専門家であり、戦争指導に積極的に関わった。統帥部からの上奏に対し具体的な質問を行い、実際に作戦内容を何回も変更をさせている。指揮は、戦争開始などの大局場面から個々の作戦まで全面的に行っている。また将兵の士気を保つことに注意し、そのために意識的に勅語(お言葉)を出している。
  2. 戦争は軍部の独走であり、天皇はそれを抑えようとした平和主義者だったのではないか?  →  天皇の方針とは帝国主義国家の君主として、露骨な手段を使わずに領土と勢力圏を拡張したいというものであり、基本的には軍部の膨張主義とは差はなく、平和を望んでいたとは言えない。
  3. 天皇は戦争について実態を知らなかったのではないか?  →  天皇には重要な情報が、すばやくもたらされている。また天皇は報告を聞き逃すことなくきちんと聞き、必要なら質問をしている。
  4. 天皇が決断したからこそ、戦争が終わり平和になったのではないか?  →  天皇の戦争責任を考える上で最も重要な判断は、戦局の決定的な転換期であるマリアナが陥落した1944年6〜7月に、戦争終結の判断を下さなかったことだろう。天皇の決断により戦争が終ったのは事実だが、戦争指導の責任の大きさの点では、多くの無駄な犠牲を出したことの方がはるかに重い。

*1:当時の日本には陸軍と海軍という2つの”独立”した軍があったと山田朗先生は説明している。2つの軍を連携させ統率する指導組織はなかった、互いに情報を共有しておらず、終盤において戦局を左右するような決定的大敗さえ他の軍には教えないという酷さであった。この結果、両軍の全ての情報を知るこの出来るのは天皇だけになり、日本の軍事力の壊滅状況を総合的に判断できるのは天皇だけであったという点でより天皇の戦争責任は重いと言えよう。驚くべきことだが真実でありよく聞かれる大本営も陸海2つ別々に存在する。